1話 雨戸の隙間

閉館まで一日を残した夕方、灯影通りには雨がまだ細く残っていた。古書灯籠堂の軒先から落ちる雫が、石畳の同じ場所を何度も濡らし、鈍い音を立てている。霧島灯子は半分だけ下ろした雨戸の向こうで、返却予定の本を一冊ずつ乾いた布で拭い、帳場では旧蔵目録の書き換えを進めていた。頁の折れ癖、背の擦れ、栞の挟まれ方。売価よりも先にそうした痕跡を見てしまう癖は、店を畳む今夜になっても変わらない。指先が触れる紙の質感が、二十年分の時間の堆積を伝えてくる。

預かり棚の端に置いたままの地方誌を手に取ると、背表紙の箔押しが指にわずかにざらついた。灯子はその感触で、先週そこに挟まっていた紙片の位置を思い出した。紙の摩耗は、記憶より正確なことがある。そう信じているから、彼女は店の終わりを整える作業を嫌いではなかった。終わりは、順番を決める作業だ。すべてを定位置に戻し、貸出票と預かり証を整理し終えれば、まだこの店は畳める。誰かの時間を預かる場所を閉じるには、それ相応の礼儀が必要なのだ。

そこへ、濡れた傘をたたんだ久世真琴が入ってきた。隣の喫茶店の伝票を片手に、いつものように店の空気を乱さない歩幅で帳場まで来る。注文帳の端に「宅配あり」とだけ書き残し、灯子の前へ視線を落とした。その一拍の間に、店の奥で裸電球が小さく鳴った。電球色の光が、埃を纏った書棚をぼんやりと照らし出している。真琴の差し出した伝票には、奇妙な名前が記されていた。

「これ、灯子ちゃん。受領印、誰に押してもらうつもり?」

その問いかけに、灯子は返事をしなかった。差出人名、灰崎朔也。二十年前に店の階段から落ちて死んだはずの常連客の名だった。かつて彼が愛した紅茶の香りが、今もこの帳場のどこかに染みついているような錯覚に陥る。灯子は伝票を受け取る指先が、わずかに震えるのを意識的に止めた。

「灰崎さんなら、もう二十年前に……」

灯子の言葉は途中で途切れた。真琴はそれを促さず、ただ静かに、伝票と雨戸の隙間から差し込む光を交互に見ている。真琴の目は、感情ではなく手順を追う目だった。彼女の手元に残る雨粒と、伝票の端の折れ方。真琴は配達員の足音が店先で止まるまでの数秒を覚えているような顔をしている。灯子はふと、灰崎朔也が最後にこの店で見たものが、自分ではなく棚の上の何かだったことを思い出した。あの時、彼が言いかけた言葉は何だったのか。店を畳むというのに、過去の記憶がまるで湿気を帯びた紙のように、重たく肌に張り付いてくる。

「雨戸、閉めましょうか」

真琴の言葉は、まるで何事もなかったかのような日常の響きを持っていた。雨戸の隙間から入る湿気は、紙の乾いた匂いを鈍くする。灯子はその不快さを、どこかで知っている感覚として飲み込んだ。死者の名義で届いた荷物。それが何を運んできたのか。灯子は帳簿の端を指先で押さえ、棚板の埃を親指で払ういつもの癖を繰り返した。この店が最後に見せる謎が、死者の名で始まるとは思わなかった。

「……ええ、閉めてちょうだい。夜になると、この店は少しだけ過去が厚くなるから」

灯子の声は、雨の音に消えるように低く、そして静かに響いた。真琴が雨戸を引くたびに、古びた木材が軋み、灯籠堂の閉鎖された時間が空間を支配していく。この店の記憶を整理し終える前に、亡霊が荷物となって届いたのだ。灯子は伝票を伏せ、まだ届いていない宅配便の重みを、まるで自分の手の中にあるかのように感じていた。雨は止まない。古書のページをめくるような雨音が、閉館前夜の静けさをより深く、より濃密なものに変えていく。灯子はふと、二十年前のあの夜、階段の陰で誰かが息を潜めていたことを思い出した。名前を借りる者は、必ずその持ち主の影も背負う。荷物を開くのが怖いのではない。開くことで、あの夜の沈黙が再び解けてしまうことへの恐怖が、背筋を伝っていた。

← 横にスクロールして読み進められます

雨戸の隙間 - 死者の返送先 - 誰でも作家life