第9話 九回裏の背中

その夜、蒼真が部室の奥に隠された私物の整理を終え、グラウンドの脇を通ろうとしたときだった。防球ネットの影に立つ男の背中があった。神谷律。主将として最後の一仕事を終え、静かに夜を見つめている。
蒼真は足を止めた。昼間のざわめきとは隔絶された、早朝のグラウンドのような張り詰めた空気が、そこにはあった。
「……もう行くのか」
振り返りもせず、神谷が言った。蒼真は小さく頷いてから、言葉が届かない距離だと気づき、短く返事をした。
「ああ。道具は全部出した」
神谷はいつも通りの調子で、無駄のない言葉を並べる。 「引退は引退だ。部活は残るやつらで回る。お前たちには、ここではない場所がある」 その言い方は間違っていない。間違っていないからこそ、蒼真の胸の奥で、氷のように冷たく響いた。
蒼真は手に持ったスコアブックを、わずかに強く握りしめた。紙のざらつきが、手のひらに食い込む。防球ネットの黒い網目が、夕闇の中でひとつずつ沈んでいくのを見つめる。神谷はその動きを見たのか見なかったのか、視線を少しだけ外した。蒼真はそこで、あの九回裏のことを思い返していた。
あのとき、ベンチにはキャプテンの声があった。采配はあった。沈黙もあった。だが、交代の合図は最後まで告げられなかった。告げられないまま、試合は閉じた。蒼真は、自分の名前が呼ばれなかったことそのものより、その瞬間に、自分がチームの物語から透明人間のように扱われていた事実を憎んでいた。
「……終わったことだから、って言いたいのか。神谷、お前は最初からそうやって、個人の悔しさなんて全部『部』という大きな器のノイズとして、切り分けてきたんだろ」
蒼真の声は、自分でも驚くほど乾いていた。神谷はすぐには返さない。整えた沈黙の後で、短く、しかし拒絶ではない音で応える。
「終わった。だから、次を始める。お前の悔しさは正しい。だが、止まったままでは、その悔しささえも腐るぞ」
それは主将としての正しさだった。正しいから、蒼真は何も返せない。返せないまま、握りしめた拳だけが少しずつ硬くなる。
神谷の背中は動かない。逃げてはいない。ただ、重い責任を背負い、部を前へ押し出すための背中だった。蒼真はその背中を見ながら、心の底から嫌いだと思った。同時に、ああいう背中を、自分は三年もの間、ずっと見てきたのだと悟る。
「九回裏のベンチの沈黙は……お前ひとりのものじゃなかったんだ。俺たちは、ずっと黙ったまま、お前の背中を見てたんだよ。勝たなきゃいけないって呪いみたいに背負ってるお前の背中を、誰も助けられなかった」
神谷の肩が、微かに揺れた。彼はゆっくりとこちらを向き、夕闇に溶けそうな表情でわずかに口角を上げた。それは嘲りではなく、初めて見せる疲弊した男の顔だった。
「気づくのが遅いな、蒼真。俺だって、お前がそのスコアブックを抱えて、どれだけ長くベンチに座っていたかを知っている。見ていたからこそ、声をかけられなかったんだ。お前の悔しさを、この部の区切りの中に収めてしまうのが怖かったからだ」
神谷の言葉は、蒼真の想像を越えていた。彼もまた、冷たい主将という役割を演じることで、自分自身の弱さを隠していたのだ。
「終わらせるために、俺は冷たくなった。でも、お前はそれを受け取らなかった。あの時の沈黙は、俺たちの敗北だったのかもしれないな」
蒼真はその言葉を聞いて、胸の奥でずっと詰まっていた何かが、音を立てて崩れるのを感じた。九回裏。交代が告げられなかったのは、自分の名前がなかったからではなく、誰もが、その最後の瞬間にどう立ち会えばいいか分からなかったからだ。
「神谷、お前が託した背番号、ちゃんと次へ渡すよ。結衣が書き続けたこの記録も、全部持っていく」
神谷は黙って頷いた。蒼真はスコアブックを胸に、静かにグラウンドを後にした。背中越しに感じる夜の風は、もう冷たくはない。自分が見ていたはずの景色と、結衣が見ていた事実。そして神谷が見ていた責任。それらがすべて重なり合って、自分だけの物語を作り上げていた。
帰り道、蒼真は歩き出した。九回裏のあの場所を、ようやく自分なりに終えることができる。空欄だと思っていたページには、これからいくらでも名前を書き足せる。未来という名の、新しい九回裏が、どこかで自分を待っているはずだ。蒼真は夜の闇に溶け込みながら、自分の中に眠る熱を、そっと確認するように深く深く息を吸い込んだ。</blockquote>
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