第8話 河川敷の言い損ね

部室の扉を開けると、結衣はいつものように窓際の席で、スコアブックに向き合っていた。夕日が埃っぽい空気に溶け込み、彼女の横顔を淡く染めている。蒼真が音もなく近づき、その背後に立つと、結衣の鉛筆が一度だけ止まった。彼女はすぐに顔を上げない。ページをめくる手元を整え、芯の折れ具合を確かめてから、ゆっくりと首を巡らせた。視線が合うのは、ほんの一拍遅れてからだ。
蒼真は、握りしめたスコアブックを突き出すようにして前に出した。喉の奥がヒリついている。なぜ勝手に書いたのか。なぜ一年もの間、自分だけが知らない時間を、この紙の上に閉じ込めていたのか。問い詰める言葉は、頭の中で渦を巻いていた。しかし、実際に彼女の静かな瞳を前にすると、言葉は泡のように喉の奥で消えていく。結衣の記録があまりにも丁寧すぎたからだ。
スコアブックのページには、蒼真の知らない自分があふれていた。誰がいつ水を飲み、誰が打席の前に呼吸を整えたか。蒼真が何も言わず、ただベンチに座り直すたび、その肩の力がどの程度の角度で抜け、視線がどこを彷徨ったかまでが、整った筆跡で記されている。それは単なる数値の羅列ではない。見落とされなかったという事実が、そこに静かに並んでいるのだ。
「……何だよ、これ。俺の、何がそんなに面白かったんだよ。スコアにもならない、ただベンチで座ってるだけの補欠の動きを、どうしてそこまで丁寧に書き留める必要があったんだ。慰めならいらない。同情なら、もっといらない。お前、ずっと俺を観察してたのか? 試合に出てる奴らを見ながら、その横で、まるで標本でも集めるみたいに」
蒼真の掠れた声に、結衣は無表情のまま、ただ鉛筆の先を見つめた。彼女の沈黙は、冷たさとは対極にある。相手の感情に土足で踏み込まないための、結衣なりの細やかな境界線だった。
「見ていたから」
彼女はそう言った。たった四文字。薄いのに、ずしりと胸の奥へ沈み込む重さを持った言葉だった。
蒼真はすぐに反応できない。見ていたのなら、なぜ声をかけなかった。見ていたのなら、どうして何も言わずに、ただこうして記録だけを積み上げてきた。怒りをそのままぶつければ、この記録の持つ重みまで、自分の悔しさと一緒に軽く蒸発させてしまう気がした。蒼真は唇を引き結び、スコアブックの白い余白を睨む。そこに書かれた自分の名前の横にある、細かな数字や記号。その白さが、なぜか今の自分には痛いほどにまぶしい。
「慰めなんて、いらなかったんだよ。お前がそうやって俺を記録に残すたび、俺は自分が、チームの一員じゃなくて、ただの『記録すべき対象』みたいに感じたんだ。神谷が結果を求めて走る横で、悠斗が勝利の笑い声を上げる横で、俺はただ、お前の鉛筆の芯が削れる音を数えてただけじゃないか」
蒼真は激昂しかけた感情を必死に抑え、低い声で吐き出した。だが結衣は、それに対しても動じない。説明もしない。ただ、紙の端を指で正確に揃えるだけだ。その仕草が、蒼真には妙に腹立たしく、同時に言葉を失うほど静かだった。慰めるより先に、書くことで事実を残す。結衣のやり方は、蒼真が今まで触れてきたどの優しさとも違っていた。だが、その違いこそが、どうしようもなく胸の奥の硬い部分をえぐってくる。
「……何で、書いたんだ」
蒼真の問いに対し、結衣は静かに、だが確固たる口調で応えた。
「書かないと、全部なかったことになってしまうから。蒼真、あなたはずっと言っていたじゃない。自分は誰にも見られていない。グラウンドに立っていない自分は、存在していないのと同じだと。でも、私は違った。あなたがベンチの隅で、次に自分が呼ばれる一瞬のために準備を整えていたこと、グラウンドの土のわずかな変化を誰よりも先に察知して、守備の動きを頭の中で反復していたこと。それら全てを、私は見ていた。あなたが誰にも見られていないと嘆いていたその時間さえ、私にとっては、この野球部を支える大切な一瞬の積み重ねだったのよ」
結衣は初めて、蒼真の瞳をまっすぐに見つめた。そこには揺ルぎない確信がある。蒼真は言葉を失い、窓の外で長く伸びた影を見つめた。言葉で慰められることは、ある意味で楽なことだ。その場限りの温もりに身を任せれば、悔しさは一時的に霧散する。だが結衣は、そんな安っぽい救いなど最初から用意していなかった。彼女は、蒼真という人間がそこにいたという事実を、何年経っても色褪せない記録の形にして、物理的な重さとして差し出したのだ。
蒼真は、喉の奥に詰まった感情を飲み込もうとしたが、それは温かい味噌汁よりも、ずっと冷たく、重い感触を伴って胸の奥で渦巻いていた。部屋へ戻ると、結衣の記録した膨大な時間が、暗闇の中で自分を静かに待ち構えているような気がした。蒼真は、その記録と向き合う勇気が出るまで、ただただ、冷え切った夜の中で、自分の存在を記録してくれた一人の少女の視線を反芻し続けていた。</blockquote>
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