7話 紙のざらつき

雨上がりの県立桜ヶ丘高校グラウンドは、踏み固められた土がまだ重く、スパイクの歯が入るたびに黒い湿り気を返した。引退試合を終えたばかりの久世蒼真は、ユニフォームの上着を脱ぐ気にもなれず、ベンチの端に座ったまま動かなかった。九回裏まで名前は呼ばれず、交代も告げられず、最後に残ったのは勝敗ではなく、声が届かないまま閉じた沈黙だった。

自分は今、どこにいるのだろう。グラウンドの喧騒は遠くの雨音のように霞んで聞こえる。仲間たちの歓声や、悔しさに涙をこらえる声さえ、自分という存在を透過して、どこか別の場所へ流れていくようだった。

「おい、蒼真。いつまで座ってんだよ。部室で片付けだぞ」

浅野悠斗が隣に腰を下ろすなり、いつも通りの軽さで蒼真の肩を叩いた。何か言って場を動かしたい気配だけが先に立って、言葉は少しずれていた。蒼真は返さない。いや、返す言葉が見つからない。あるいは、その言葉を喉まで持ち上げることさえ億劫だった。紙コップのぬるくなったスポーツドリンクをひと口だけ飲み、飲み下したあとで置く。氷が溶けて薄まった甘い液体が、喉の奥で澱のように重く残る。その小さな動きだけが、自分がまだこのベンチに留まっていることを示していた。

「……おう。すぐ行く」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていて、どこか他人のもののように響いた。悠斗は蒼真の様子を気にかけながらも、深刻な空気から逃げ出したいのか、すぐに立ち上がって手元のグラブをいじり始める。彼の背中には、試合を駆け抜けた者特有の、清々しい疲労感が見えた。自分にはない、その軽さが突き刺さる。

少し離れたところで、神谷律が用具の片づけを指示している。彼の声は短い。過不足のない、軍隊のような号令。引退後の進路や、提出書類や、明日からの段取りまでを、箇条書きみたいに切り分けていく。正しい。神谷の言うことは、常に野球部としての正解だった。だからこそ、蒼真にはそれが氷のように冷たく聞こえた。ベンチに残ったままの胸のざらつきに、彼の言葉はあまりにも鋭すぎて、うまく触れることができない。

蒼真は立ち上がれずにいた。ユニフォームの背中は汗で乾ききらず、湿った布が皮膚に貼りつくように重い。グラウンドから吹く風には、雨と土と、使い終えた革の匂いが混じっていた。それは自分にとって、これまでの三年間のすべてであり、同時に、この場所にはもう自分の居場所がないことを告げる匂いでもあった。

「蒼真?」

悠斗が振り返る。その顔には、隠しきれない当惑が浮かんでいた。蒼真は無意識のうちに拳を握りしめ、スパイクの先で土をえぐる。試合には負けた。けれど、それ以上に自分を追い詰めているのは、最後の一球まで、自分の役割が空欄のままだったという事実だった。誰にも期待されず、誰にも必要とされなかった九回裏。このベンチの端で、世界から自分だけが切り離されていくような感覚に、蒼真はただ沈黙を重ねるしかなかった。

部活の終わり。その言葉が、蒼真の肩に重くのしかかる。みんなは次に進もうとしている。神谷も、悠斗も、グラウンドを整える後輩たちも。自分だけが、このベンチという小さな島に置き去りにされたまま、季節の移ろいを見守ることしかできないのだろうか。雨の残した湿気が、冷たい指先から体温を奪っていく。蒼真は、ただ静かに、終わってしまった自分の九回裏を噛み締めていた。

部室へ戻ると、湿った空気に紙と埃の匂いが混じっていた。練習を終えた部員たちの残していった汗の匂いが、窓を閉め切った部室の中で澱んでいる。棚の隅に、蒼真の知らない厚みのスコアブックが一冊だけ置かれているのが目に入った。

表紙の角は擦れ、ページの端には鉛筆の粉が白く残っている。篠宮結衣の定位置である机の場所を思うより先に、その本の存在のほうが、蒼真の瞳を強く引いた。誰の持ち物かを確認する必要すらなかった。表紙に書かれた年号と、結衣特有の角の立った数字の筆跡が、それを証明していた。

蒼真は、棚からそのスコアブックを抜き取った。指先に触れる紙の感触は、雨のあとのグラウンドのように少しだけ湿っている。めくるたび、ページがざらりと音を立てる。その音は、まるで自分では忘れてしまったはずの時間を、無理やり引き剥がすような響きを持って耳に届いた。

春の大会の欄まで遡った記録には、単なる得点や打順の推移だけではなかった。交代の前に神谷が迷った十秒の間合い、悠斗が守備位置で焦りから何度もグラブを叩きつけた回数、打席に入れなかった自分を誰がどのように見ていたかまで、克明に記されている。

「……何、これ」

声が出た。自分では、誰にも見られていなかったと思っていた。試合という枠組みから弾き出され、ベンチという名の隔離施設でただ時間を潰すだけの存在だと、自分自身を規定していたはずだった。それなのに、ここには自分という存在の痕跡が、一投一打の重みとともに刻まれていた。蒼真がベンチに戻ったあとに指先を汚れたユニフォームで拭った仕草まで、結衣は記録していた。なぜ、ここまで。問いが喉元までせり上がるが、記録の細かさに圧倒され、言葉は空中で散った。

記録していた当の本人は、少し離れた窓際で、無表情に鉛筆を削っていた。彼女は蒼真がスコアブックを手に取ったことに気づいているはずだが、振り返ることはしない。ただ、短くなった鉛筆を持ち替えながら、次の記録のための新しいページへ視線を落とす。言葉で慰めるつもりはないらしい。その静けさが、蒼真の胸を鋭く、そしてひどく不安にさせた。

蒼真は、スコアブックを閉じて彼女の背中に歩み寄った。

「結衣」

呼ぶと、彼女は鉛筆を置いた。ゆっくりとこちらを向く。その瞳には、試合中の集中力と同じ、硬質なまでの静けさが宿っている。彼女は蒼真を見ても、驚いた顔をしない。期待も、憐れみも、責めるような感情もそこにない。あるのは、事実を見つめるだけの凪いだ視線だった。

蒼真の心臓は早鐘を打っていた。記録された時間と、自分の知る時間の乖離。それに対する戸惑いと、隠された真実を知ってしまった気まずさが、胃の腑のあたりで絡まり合う。

「……見てたのか」

それだけが、精一杯の言葉だった。問うというよりは、確認に近い。結衣は、一拍、あるいは二拍ほど間を置いて、小さくうなずいた。あまりにも短い返事だったのに、その一言だけが、部室の空気を圧迫するほど重く響く。

蒼真は、そこでそれ以上を聞けなかった。聞けば、誰かの厚意を壊してしまいそうで、同時に自分の悔しさまで、その記録の正確さによって軽くしてしまいそうだったからだ。

「どうして、こんな……」

蒼真は続きを言おうとして、やめた。結衣の顔を見つめる。彼女は何も言わない。ただ、窓の外を流れる雲を追うように視線をそらし、また鉛筆を手に取った。その沈黙は拒絶ではない。自分に踏み込みすぎないための彼女なりの距離感であり、同時に、蒼真がこの記録の重みを受け止めるための時間を与えてくれているようでもあった。

蒼真は、スコアブックを抱きかかえるようにして立ったまま、部室の埃っぽい空気を深く吸い込んだ。記録には嘘がない。そこに書かれた自分の動きは、自分自身さえも認識していなかった、あの時の呼吸や、迷いや、土の匂いまでを内包していた。

「見ててくれたんだな」

そう呟いてみたが、返事はなかった。結衣はただ、削ったばかりの鉛筆の先を指でなぞり、それから静かに部室を出て行った。残されたのは、蒼真と、一冊のスコアブック。彼は開かれたページをもう一度見つめた。そこにあるのは、出番のなかった三年の春と、誰かがそれを見続けていたという、静かで確実な証拠だった。自分の居場所は消えていなかった。ただ、今までその場所を見るための視界を、自分自身で閉ざしていただけだったのかもしれない。蒼真は、部室の窓際に貼られた背番号のメモをぼんやりと眺め、自分の中にあった悔しさの輪郭が、少しずつ、しかし確実に変わり始めているのを感じていた。その感覚は、ひどく怖く、そして少しだけ救いに満ちていた。

夕暮れの街は、春の終わり特有の湿った風を纏っていた。制服の肩に食い込む鞄の重さが、今日の引退試合という終わりの合図を何度も叩きつけてくる。玄関の戸を開けると、廊下の奥からは台所の換気扇が回る音と、煮汁が少しだけ焦げたような微かな匂いが漂ってきた。

母、久世美和は、エプロン姿のままキッチンに立ち、味噌汁の味を確かめていた。蒼真が帰宅したことに気づいているはずなのに、彼女はすぐには振り向かない。ただ、コンロの火を弱め、味噌を溶かし入れる手つきを繰り返すだけだ。彼女の視線は、蒼真の姿を直接追うよりも先に、玄関に脱ぎ捨てられたスパイクの泥の状態を、生活の異変として正確に読み取っていた。

「おかえり。遅かったわね」

蒼真は返事をしない。いや、喉の奥が硬くなって、言葉という形にならないまま沈んでいったのだ。脱ぎ捨てたスパイクの泥が、玄関のタイルに黒い点を作っている。美和はその汚れを無言で通り過ぎ、洗濯かごの位置を少しだけずらして通り道を作った。洗濯物の中には、今日まで着ていたユニフォームとアンダーシャツが丸められている。それを手に取ることもなく、蒼真はリビングへと歩いた。

食卓には、すでに温かい食事が並んでいた。湯気の立つ茶碗、焼き魚、煮物。それはいつもと変わらない、美和が営む生活の営みだった。蒼真は椅子に腰を下ろしたが、箸を伸ばす気力は湧かなかった。目の前の白いご飯が、妙にまぶしく見える。

美和は向かいの席に座り、食卓の端に揃えて置かれた進路資料のファイルを整えた。厚みのあるファイルには、大学や専門学校のパンフレットがひしめき合っている。それは蒼真が、引退後に向き合うべき「次」の景色だ。美和はそれを見つめるでもなく、ただ自分の味噌汁をひと口飲んだ。

「今日、担任から電話があったわ。補習の予定、確認しておいてって」

彼女の言葉は、感情の起伏を排除した、事務的で平坦なものだった。それが今の蒼真には、突き放すような圧力となって降りかかってくる。美和は、蒼真が何を抱えて帰ってきたのかを尋ねない。尋ねれば、この家の中に部活の悔しさが溢れ出し、整理整頓された日常が崩れることを知っているからだ。

「……ああ」

蒼真は短く答えた。視線を上げない。食卓の木目、進路資料の表紙、自分の膝の上にある手の平。どこへ目を向けても、自分という人間が「野球部の補欠」という記号から「受験生」というラベルに貼り替えられる瞬間の、やるせない空虚さだけが浮き彫りになる。目の前の魚の身を箸でつついてみるが、喉を通る気配がない。

「食べてからにしなさい。体が資本よ」

美和の声が、少しだけ硬くなった。彼女は蒼真の残した茶碗を横目で見やり、それから視線をそらす。彼女の優しさは、いつもこうして生活の段取りを維持することに向けられていた。甘やかすこと、あるいは一緒になって感情を乱すことは、親としての責任ではないと信じているかのように。

蒼真は、箸を置いた。カチリ、と陶器がぶつかる音が、部屋の静けさに溶けて消える。

「……ごちそうさま」

まだ何も食べていない。美和は蒼真の言葉を否定しなかった。ただ、深く溜息をつき、食器を片付けようと立ち上がった。その背中には、息子が何を失い、何に取り残されているかを知っている人間の、沈黙の重みが漂っていた。

自室に戻った蒼真は、照明をつけずにベッドへ倒れ込んだ。窓の外では、春の風が木々を揺らしている。カバンの中から、結衣に返そうと思っていたスコアブックを取り出した。暗闇の中で、その表紙の角を指先でなぞる。

結衣の記録は、嘘をつかない。自分がベンチで何をしていたか、誰が何を見ていたか。その冷徹なまでの事実が、今も指先に紙のざらつきとなって残っている。

ページを開く。闇の中でも、脳裏には試合中のグラウンドが鮮明に浮かび上がる。九回裏。打者が打ち上げ、内野フライが捕球される。試合終了のサイレン。自分はベンチに座ったまま、グラブを抱えていた。出番はなかった。神谷の采配は正しかった。悠斗のバットは火を吹いていた。自分以外の全員が、物語の登場人物として役割を全うしていた。

あの記録には、何が書かれていた?

蒼真は、もう一度ページをめくった。 「三回、守備固め準備、肩の張り確認、視線は右翼」 「六回、伝令後のベンチ内、ドリンクの補充、神谷へ声をかける」

文字をなぞるたび、心臓が波打つ。見ていたのだ。誰も見ていないと思っていた場所で、自分という人間を、消さずに記録していた人間がいた。ベンチに置いてきたはずの悔しさが、その記録を媒介にして、今の自分の中にじわじわと逆流してくる。

終わったはずの一日が、終わらないまま、この部屋の中で居座っている。悔しさの形が、ただの「出番なし」から「見届けられていたことへの戸惑い」へと変質していく。蒼真はスコアブックを胸に抱いた。紙の匂いと、春の夜の冷気が混じり合い、自分の息遣いだけが部屋を満たしている。

明日になれば、また進路の話が始まるだろう。また、何かを「終わったこと」として整えなければならない。けれど、今の自分には、そのファイルをファイル通りに閉じることがどうしてもできなかった。

蒼真は目を閉じた。瞼の裏に、グラウンドの土の粒子が浮かぶ。九回裏のあの静けさは、敗北の音ではなく、ただの始まりの合図だったのかもしれない。そう思おうとして、やはり苦い感情が胸を塞ぐ。眠りは遠い。夜の部室に閉じ込められたまま、蒼真は誰の声も届かない暗闇の中で、記録された自分の姿を何度も反芻していた。

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紙のざらつき - 記録の春 - 誰でも作家life