6話 河川敷の沈黙

放課後の川風は、春の終わりを告げるように、どこか頼りなく肌を掠めていった。県立桜ヶ丘高校のグラウンドを離れ、蒼真は足の裏に伝わるアスファルトの硬さを疎ましく思いながら、河川敷の遊歩道を歩いていた。川面は沈みかけた陽光を反射して鈍く光り、水草が流れるたびに、世界が少しずつ歪んでいくような錯覚を覚える。

背後から、慣れ親しんだ足音が近づいてくる。蒼真は振り返らなかった。その足音の主が誰であるか、数え切れないほど繰り返してきた日常が、すでに彼を特定していた。

「おう、蒼真! 待てよ、速いってば」

息を切らせて追いついてきた浅野悠斗は、手にしたコンビニ袋を小刻みに揺らしていた。いつも通り、少しだけ大袈裟な動作で蒼真の肩を叩く。その掌の熱さが、今の蒼真にはひどく遠いもののように感じられた。

「菓子パン、食う? さっき新しいやつ買ったんだけどさ、中身が妙にクリームっぽくて、面白いんだよ」

蒼真は首を振った。悠斗はそれでもめげずに、袋から取り出したパンを指でつついて笑った。レギュラーとしてグラウンドを走り回っていたあいつと、ベンチの端で座り続けていた自分。その境界線は、もう誰にも埋められないほど深くなっているのではないか。蒼真はそう感じながら、相槌を打つ気力さえも削ぎ落とされたまま、黙々と歩みを続けた。

悠斗は、蒼真の無言を埋めようと必死だった。クリームパンの生地がどうだとか、次の大会に向けた練習メニューの話だとか、他愛のない話題を矢継ぎ早に投げつけてくる。だが、その声は、どれほど大きくても風の中に溶けていき、蒼真の鼓膜には届かない。

「……なぁ、蒼真。お前、何か言えよ。そんな顔して黙ってると、俺までどうしていいか分かんなくなるだろ」

悠斗の声に、わずかな苛立ちと、それを隠しきれない焦燥が混じった。彼は、気づくのが遅い男だ。だが、自分が踏み込んでいる場所が、他人の深い傷であることを知らないほど鈍くはない。彼は蒼真の歩調を無理やり止めさせ、正面からその顔を覗き込んだ。

「……何がだよ」

ようやく絞り出した蒼真の返事は、自分でも驚くほど冷えていた。悠斗はたじろぐ。これまで、蒼真はどんなに不機嫌な時でも、こうして正面から言葉を遮ることはなかった。それは、蒼真の中にあった「何事もなく日々をやり過ごす」という最後の防壁が、崩れ去ったことを意味していた。

「出られなかったこと、そんなに気にすんなって。試合なんて水物だしさ。俺だってエラーするときはするし、補欠だったお前だって、練習量じゃ負けてなかったのは、みんな知ってる……」

「みんなって誰だよ」

蒼真の問いかけに、悠斗は言葉を詰まらせた。

「みんなって、チームのみんなだろ。神谷も、後輩たちも」

「神谷は『役割が終わった』って言ったよ。俺の役割は、最後まで交代を告げられずに終わったことだったのか。それとも、ベンチで土を汚して、誰かの名前が呼ばれるのを待つだけの、背景でしかなかったのか」

蒼真は、川の向こう岸を見つめた。夕暮れに染まる土手が、まるで自分を拒絶しているかのように赤く焼けている。

「……俺はさ、出たかったんだ。エラーしてもいいし、三振してもいい。ただ、試合という時間の中に、自分という人間が刻まれる瞬間が欲しかったんだよ。それが叶わなかったことが悔しいんじゃない。その場所から、最初から俺がいなかったかのように、チームが成立していたことが悔しいんだ」

悠斗は握りしめていた袋の口を、千切れんばかりに強く掴んだ。蒼真の突き放すような言葉の数々は、悠斗がレギュラーとして当たり前に享受していた「居場所」の重みを、彼自身に突きつけていた。彼は、試合に出ることに必死で、隣にいる蒼真がベンチの中でどれほど細かく自分を殺し、どれほどの重圧を抱えていたか、想像すらしていなかったのだ。

「悪かった」

悠斗が言った。声は小さかったが、その響きには今までの軽薄さが消えていた。蒼真は立ち止まり、初めて悠斗の方を見た。悠斗は目を逸らさない。自分の言葉が、いかに蒼真を軽んじていたかを、ようやく自覚した者の目だった。

「俺、何も考えてなかった。試合に出てるだけで、全部やり切った気になってたんだ。お前がベンチで、俺より何倍も長い時間をかけて試合を見てたなんて、分かってたはずなのに」

「分かってなかったよ。お前は、ずっと前だけ見てた」

蒼真はそう言って、再び歩き出した。夕方の風がふたりの間を抜けていく。夕焼けはさらに赤みを増し、地平線へと溶けていく。蒼真は、悠斗が悪いわけではないことを知っていた。自分もまた、どこかで自分がレギュラーでなかったことに言い訳をして、誰かが見てくれるのを待ち続けていた甘さがあったのだ。

悠斗は立ち尽くしたまま、もう一度だけ「悪かった」と言った。今度は、逃げない声だった。自分の中にあった無自覚な傲慢さを恥じ、それを蒼真に差し出すような、不器用な誠実さがあった。

蒼真は、それをすぐには許さない。けれど、悠斗が黙って自分の後ろを歩き始めたことは、少しだけ肩の力を抜かせた。ふたりは河川敷の草が揺れる音を聞きながら、ただ静かに、帰り道を並んで戻った。その道筋には、もう言葉を無理に埋める必要はなかった。春が終わる前の、少し肌寒い夕闇の中で、彼らはそれぞれの悔しさと向き合いながら、ただ同じ時間を共有していた。

帰り道、蒼真は自分の足元を見た。伸びた影が、ゆっくりと重なっていく。出番のなかった九回裏。あの場所で自分がどれほど惨めだったか、悠斗の謝罪を受けた今でも、その記憶は薄れない。けれど、自分が「見られていなかった」という孤独な前提だけは、結衣のスコアブックと、隣を歩くこの無骨な友人のおかげで、少しずつ崩れ始めていた。

「明日さ、部室行くんだろ?」

悠斗がふと、そんなことを聞いた。蒼真は、手の中にあるスコアブックの感触を思い出した。

「ああ。まだ、片付けてないものがあるから」

そう返すと、悠斗は少しだけ安堵したように息を吐いた。ふたりは橋の下をくぐり、住宅街の灯りがこぼれる場所へと足を踏み入れた。春の匂いが、少しずつ夜の冷気に塗り替えられていく。蒼真は拳を緩めた。その掌には、まだ何もない。けれど、自分という存在が、確かにこの場所に刻まれていることを、今は少しだけ信じられるような気がしていた。

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