第5話 見ていたから

部室の扉を開けると、結衣はいつものように窓際の席で、スコアブックに向き合っていた。夕日が埃っぽい空気に溶け込み、彼女の横顔を淡く染めている。蒼真が音もなく近づき、その背後に立つと、結衣の鉛筆が一度だけ止まった。彼女はすぐに顔を上げない。ページをめくる手元を整え、芯の折れ具合を確かめてから、ゆっくりと首を巡らせた。視線が合うのは、ほんの一拍遅れてからだ。
蒼真は、握りしめたスコアブックを突き出すようにして前に出した。喉の奥がヒリついている。なぜ勝手に書いたのか。なぜ一年もの間、自分だけが知らない時間を、この紙の上に閉じ込めていたのか。問い詰める言葉は、頭の中で渦を巻いていた。しかし、実際に彼女の静かな瞳を前にすると、言葉は泡のように喉の奥で消えていく。結衣の記録があまりにも丁寧すぎたからだ。
スコアブックのページには、蒼真の知らない自分があふれていた。誰がいつ水を飲み、誰が打席の前に呼吸を整えたか。蒼真が何も言わず、ただベンチに座り直すたび、その肩の力がどの程度の角度で抜け、視線がどこを彷徨ったかまでが、整った筆跡で記されている。それは単なる数値の羅列ではない。見落とされなかったという事実が、そこに静かに並んでいるのだ。
「……何だよ、これ」
蒼真の掠れた声に、結衣は無表情のまま、ただ鉛筆の先を見つめた。彼女の沈黙は、冷たさとは対極にある。相手の感情に土足で踏み込まないための、結衣なりの細やかな境界線だった。
「見ていたから」
彼女はそう言った。たった四文字。薄いのに、ずしりと胸の奥へ沈み込む重さを持った言葉だった。
蒼真はすぐに反応できない。見ていたのなら、なぜ声をかけなかった。見ていたのなら、どうして何も言わずに、ただこうして記録だけを積み上げてきた。怒りをそのままぶつければ、この記録の持つ重みまで、自分の悔しさと一緒に軽く蒸発させてしまう気がした。蒼真は唇を引き結び、スコアブックの白い余白を睨む。そこに書かれた自分の名前の横にある、細かな数字や記号。その白さが、なぜか今の自分には痛いほどにまぶしい。
「慰めなんて、いらなかったんだよ」
蒼真は、精一杯の強がりを絞り出した。だが結衣は、それに対しても動じない。説明もしない。ただ、紙の端を指で正確に揃えるだけだ。その仕草が、蒼真には妙に腹立たしく、同時に言葉を失うほど静かだった。慰めるより先に、書くことで事実を残す。結衣のやり方は、蒼真が今まで触れてきたどの優しさとも違っていた。だが、その違いこそが、どうしようもなく胸の奥の硬い部分をえぐってくる。
「……何で、書いたんだ」
「書かないと、全部なかったことになってしまうから」
結衣は初めて、蒼真の瞳をまっすぐに見つめた。そこには揺るぎない確信がある。蒼真は言葉を失い、窓の外で長く伸びた影を見つめた。言葉で慰められることは、ある意味で楽なことだ。その場限りの温もりに身を任せれば、悔しさは一時的に霧散する。だが結衣は、そんな安っぽい救いなど最初から用意していなかった。彼女は、蒼真という人間がそこにいたという事実を、何年経っても色褪せない記録の形にして、物理的な重さとして差し出したのだ。
その夜、帰宅した蒼真は、食卓に並ぶ料理を前にしても、箸を動かすことができなかった。母の美和は、そんな息子の沈黙を責めようとはしない。彼女は何も言わず、ただ湯気の立つ茶碗を置き、冷蔵庫の中身を確認して、淡々と翌日の準備を整えている。蒼真は、食卓の端に置かれた進路資料のファイルを見ようとしなかった。見ないまま、指先に染み付いたスコアブックの紙のざらつきと、結衣のあの静かな視線を思い返していた。
自分は、誰からも見られていなかったわけではない。ただ、その事実に気づくための言葉を持たなかっただけだ。蒼真は、喉の奥に詰まった感情を飲み込もうとしたが、それは温かい味噌汁よりも、ずっと冷たく、重い感触を伴って胸の奥で渦巻いていた。部屋へ戻ると、結衣の記録した膨大な時間が、暗闇の中で自分を静かに待ち構えているような気がした。蒼真は、その記録と向き合う勇気が出るまで、ただただ、何も食べないまま冷え切った夜をやり過ごすしかなかった。
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