第4話 棚の奥の缶

放課後の県立桜ヶ丘高校グラウンドは、日が傾くと一段と湿って見えた。白線の粉は薄く、雨のあとに固まった土はスパイクの底を鈍く返す。蒼真は部室の前で一度立ち止まり、指先でリストバンドの端を触ってから扉を開けた。
部室の中では、神谷律が背番号の受け渡しをしていた。折り目のついた部のノート、書き換えられた練習予定表、使い古したホイッスル。どれも整っているのに、整いすぎていて、蒼真には余計に遠く感じた。神谷は蒼真に向かって「新チームの準備は進める」とだけ言い、次の季節へ押し出すようにノートを閉じる。蒼真は返事をしないまま、棚の整理を手伝うことになった。
棚の奥から出てきたのは、小さな缶だった。表面にへこみがあり、蓋の縁には薄い鉛筆の粉が残っている。結衣がそこに折れた芯を入れていたのだと、蒼真はすぐには気づけない。その横には去年の夏の記録用紙が束ねられていた。開いた瞬間、見慣れた名前が出場選手の欄ではない場所に何度も並ぶ。守備練習の補助、整備後の土ならし、声出しの交代。蒼真は目を落としたまま、紙のざらつきを親指で確かめた。
その字は、試合の結果よりも、蒼真がそこにいた時間を見ているようだった。グラウンドの端で土をならした指先の冷たさ、汗が乾いて重くなったユニフォームの肩、誰かの後ろで拾ったバットの音。そんなものが、記録になるはずがないと思っていた。けれど結衣は、当たり前の作業としてではなく、消えてほしくない形で残していた。
「これ、結衣が?」
蒼真の声は短い。神谷は答えず、棚の反対側に視線を向けた。悠斗は背番号の束を抱えたまま、何か言いかけて飲み込む。結衣は部室の窓際で、何も言わずに鉛筆を削っていた。削りかすが薄く落ちる音だけが、部室の埃っぽい空気に混じる。蒼真はその音を聞きながら、結衣が春まで一人で記録を続けていたことを、まだ理解しきれないまま受け取った。
「見てたんだろ、ずっと」
蒼真は、その鉛筆の削りかすが落ちるリズムに合わせるように、短く言葉を吐き出した。神谷はノートの角を指で叩き、無表情のまま蒼真を見る。
「ああ、見てたな。篠宮はいつだってそうだ。俺たちがグラウンドでボールを追いかけている間、あいつはグラウンドの外側で、ボール以外のものを数えていた。お前がベンチでどれだけ足元をいじり回していたか、お前が誰よりも早くバットの準備をしていたか、俺たちが忘れていく瑣末なことまで、全部だ」
神谷の言葉には、感傷が欠片も混じっていない。それがかえって、蒼真の胸を鋭くえぐる。自分を軽んじていたはずの神谷が、結衣のその奇妙な献身を当然のことのように認めている。
悠斗は背番号の束を棚に置き、気まずげに頭をかいた。
「おい、神谷。そんな言い方しなくてもいいだろ。篠宮は……ただ、真面目なんだよ。お前も、もっと早く気づいてやればよかったじゃないか」
「気づく必要があったか?」
神谷は冷淡に言い返した。「お前たちがグラウンドで必死になっている間、誰が何を見ていようと勝敗には関係ない。篠宮の記録は、篠宮自身の満足だ。お前たちがそれをどうこう思う必要はない。終わったことだ」
神谷の言葉は、正論の刃となって蒼真の喉元に突きつけられた。自分の中にある悔しさは、部活の成績にも、勝敗にも繋がらない。ただの個人的な滞留物に過ぎないのか。蒼真は缶の中に残った折れた芯を一本、指でつまみ上げた。冷たい。鉄の味がする。この折れた芯一つ一つに、結衣の執着が詰まっていると思うと、自分自身の存在が、紙の余白に書かれたインクのシミのように思えてくる。
「……満足かよ」
蒼真は結衣の方を向いた。結衣は削り終えた鉛筆を置き、ゆっくりと蒼真の目を見た。
「満足、という言葉とは違うと思う」
結衣の言葉は、まるで水面に石を投げるように静かだった。
「ただ、消えてほしくなかった。試合に出た人たちには、勝ったという事実が残る。負けた人には、負けたという事実が残る。でも、そこに行き着くまでの、誰にも見られない迷いや、喉を鳴らすような沈黙は、記録しなければ、誰にも、本人にさえも、なかったことになってしまう。私は、それが怖かっただけ」
彼女は窓の外を指さした。沈みかけた太陽が、グラウンドの土を赤茶色に染めている。
「九回裏、お前がベンチから一歩も動けなかったあの時、お前の拳がどれだけ硬く握られていたか、知ってる? あれは、ただの出番待ちじゃない。お前は、自分自身と戦っていた。私はその戦いを、ちゃんと書き留めたかったの。たとえ、お前が自分のことを『必要なかった』と切り捨てようとしても、記録という事実は、嘘をつかない」
結衣の長い台詞は、部室の空気を震わせた。悠斗が驚いたように息を呑む。神谷さえも、言葉を失い、蒼真を見つめている。
蒼真は、握りしめた鉛筆の芯を缶に戻した。カチリ、という微かな音がした。自分の悔しさが、誰かの手によって「事実」として保存されていたという重み。それは、怒りとも安堵とも違う、得体の知れない熱となって蒼真の血を巡った。自分は、誰からも見られていなかったわけではなかった。ただ、見ていてくれた人の温度に、気づこうとしなかっただけなのだ。
「……そうか」
蒼真はそれ以上、何も言えなかった。ただ、目の前のスコアブックの厚みが、さっきまでよりもずっと重く感じられた。部室の外で、夜の風がグラウンドをなぞっていく音がした。その音さえも、今の自分には、どこか優しい記録の重なりに聞こえるような気がした。
神谷は静かに、ノートを鞄にしまった。
「行こう。新チームの練習は、明日も朝からだ。お前たちの場所は、もうここにはない」
神谷の言葉は冷たかったが、その瞳の奥に、わずかな躊躇のような色が混じっているのを、蒼真は見逃さなかった。彼は蒼真の肩を一度だけ、乱暴に叩いてから、部室を出て行った。悠斗が後に続き、最後に蒼真が結衣を見た。結衣は何も言わず、ただ次の記録を始めるための新しいノートを手に取っていた。
部室の灯りを消す直前、蒼真は窓際の背番号のメモを指でなぞった。紙は少し黄ばみ、角が丸くなっている。この番号の持ち主たちは、こうして自分たちの時間を整理し、次へ渡してきたのだ。
蒼真は、自分もまたその歴史の一部なのだと、初めて納得した。自分が部にいた意味は、グラウンドでどう動いたかだけではなく、こうして誰かの記録の中に「そこにいた」という証拠として刻まれている。その事実に気づいたとき、胸の奥で渦巻いていた泥のような悔しさが、少しずつ透明な水に洗われていくのを感じた。
明日になれば、もうユニフォームを着ることはない。けれど、このスコアブックがある限り、自分はいつだってこの九回裏の場所に帰ってこられる。蒼真は小さく息を吸い込み、埃っぽい部室の空気を肺に満たした。それは、紛れもなく、自分たちが駆け抜けた春の残り香だった。
帰路に着く蒼真の足取りは、先ほどまでよりもずっと軽かった。背中の鞄の中にある、あの重いスコアブックのことだけを考えていた。家に帰り、母の美和が食卓で進路の話を始めたとしても、今の自分なら、ちゃんとその言葉を咀嚼できる気がした。生活は続く。けれど、自分の中に刻まれたこの一年分の記録もまた、消えることなく自分を支え続けるはずだ。蒼真は夜の闇に溶け込みながら、自分の中に眠る熱を、そっと確認するように握りしめた。
← 横にスクロールして読み進められます
