第3話 帰宅の食卓

夕暮れの街は、春の終わり特有の湿った風を纏っていた。制服の肩に食い込む鞄の重さが、今日の引退試合という終わりの合図を何度も叩きつけてくる。玄関の戸を開けると、廊下の奥からは台所の換気扇が回る音と、煮汁が少しだけ焦げたような微かな匂いが漂ってきた。
母、久世美和は、エプロン姿のままキッチンに立ち、味噌汁の味を確かめていた。蒼真が帰宅したことに気づいているはずなのに、彼女はすぐには振り向かない。ただ、コンロの火を弱め、味噌を溶かし入れる手つきを繰り返すだけだ。彼女の視線は、蒼真の姿を直接追うよりも先に、玄関に脱ぎ捨てられたスパイクの泥の状態を、生活の異変として正確に読み取っていた。
「おかえり。遅かったわね」
蒼真は返事をしない。いや、喉の奥が硬くなって、言葉という形にならないまま沈んでいったのだ。脱ぎ捨てたスパイクの泥が、玄関のタイルに黒い点を作っている。美和はその汚れを無言で通り過ぎ、洗濯かごの位置を少しだけずらして通り道を作った。洗濯物の中には、今日まで着ていたユニフォームとアンダーシャツが丸められている。それを手に取ることもなく、蒼真はリビングへと歩いた。
食卓には、すでに温かい食事が並んでいた。湯気の立つ茶碗、焼き魚、煮物。それはいつもと変わらない、美和が営む生活の営みだった。蒼真は椅子に腰を下ろしたが、箸を伸ばす気力は湧かなかった。目の前の白いご飯が、妙にまぶしく見える。
美和は向かいの席に座り、食卓の端に揃えて置かれた進路資料のファイルを整えた。厚みのあるファイルには、大学や専門学校のパンフレットがひしめき合っている。それは蒼真が、引退後に向き合うべき「次」の景色だ。美和はそれを見つめるでもなく、ただ自分の味噌汁をひと口飲んだ。
「今日、担任から電話があったわ。補習の予定、確認しておいてって」
彼女の言葉は、感情の起伏を排除した、事務的で平坦なものだった。それが今の蒼真には、突き放すような圧力となって降りかかってくる。美和は、蒼真が何を抱えて帰ってきたのかを尋ねない。尋ねれば、この家の中に部活の悔しさが溢れ出し、整理整頓された日常が崩れることを知っているからだ。
「……ああ」
蒼真は短く答えた。視線を上げない。食卓の木目、進路資料の表紙、自分の膝の上にある手の平。どこへ目を向けても、自分という人間が「野球部の補欠」という記号から「受験生」というラベルに貼り替えられる瞬間の、やるせない空虚さだけが浮き彫りになる。目の前の魚の身を箸でつついてみるが、喉を通る気配がない。
「食べてからにしなさい。体が資本よ」
美和の声が、少しだけ硬くなった。彼女は蒼真の残した茶碗を横目で見やり、それから視線をそらす。彼女の優しさは、いつもこうして生活の段取りを維持することに向けられていた。甘やかすこと、あるいは一緒になって感情を乱すことは、親としての責任ではないと信じているかのように。
蒼真は、箸を置いた。カチリ、と陶器がぶつかる音が、部屋の静けさに溶けて消える。
「……ごちそうさま」
まだ何も食べていない。美和は蒼真の言葉を否定しなかった。ただ、深く溜息をつき、食器を片付けようと立ち上がった。その背中には、息子が何を失い、何に取り残されているかを知っている人間の、沈黙の重みが漂っていた。
自室に戻った蒼真は、照明をつけずにベッドへ倒れ込んだ。窓の外では、春の風が木々を揺らしている。カバンの中から、結衣に返そうと思っていたスコアブックを取り出した。暗闇の中で、その表紙の角を指先でなぞる。
結衣の記録は、嘘をつかない。自分がベンチで何をしていたか、誰が何を見ていたか。その冷徹なまでの事実が、今も指先に紙のざらつきとなって残っている。
ページを開く。闇の中でも、脳裏には試合中のグラウンドが鮮明に浮かび上がる。九回裏。打者が打ち上げ、内野フライが捕球される。試合終了のサイレン。自分はベンチに座ったまま、グラブを抱えていた。出番はなかった。神谷の采配は正しかった。悠斗のバットは火を吹いていた。自分以外の全員が、物語の登場人物として役割を全うしていた。
あの記録には、何が書かれていた?
蒼真は、もう一度ページをめくった。 「三回、守備固め準備、肩の張り確認、視線は右翼」 「六回、伝令後のベンチ内、ドリンクの補充、神谷へ声をかける」
文字をなぞるたび、心臓が波打つ。見ていたのだ。誰も見ていないと思っていた場所で、自分という人間を、消さずに記録していた人間がいた。ベンチに置いてきたはずの悔しさが、その記録を媒介にして、今の自分の中にじわじわと逆流してくる。
終わったはずの一日が、終わらないまま、この部屋の中で居座っている。悔しさの形が、ただの「出番なし」から「見届けられていたことへの戸惑い」へと変質していく。蒼真はスコアブックを胸に抱いた。紙の匂いと、春の夜の冷気が混じり合い、自分の息遣いだけが部屋を満たしている。
明日になれば、また進路の話が始まるだろう。また、何かを「終わったこと」として整えなければならない。けれど、今の自分には、そのファイルをファイル通りに閉じることがどうしてもできなかった。
蒼真は目を閉じた。瞼の裏に、グラウンドの土の粒子が浮かぶ。九回裏のあの静けさは、敗北の音ではなく、ただの始まりの合図だったのかもしれない。そう思おうとして、やはり苦い感情が胸を塞ぐ。眠りは遠い。夜の部室に閉じ込められたまま、蒼真は誰の声も届かない暗闇の中で、記録された自分の姿を何度も反芻していた。
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