2話 棚の隅のスコアブック

部室へ戻ると、湿った空気に紙と埃の匂いが混じっていた。練習を終えた部員たちの残していった汗の匂いが、窓を閉め切った部室の中で澱んでいる。棚の隅に、蒼真の知らない厚みのスコアブックが一冊だけ置かれているのが目に入った。

表紙の角は擦れ、ページの端には鉛筆の粉が白く残っている。篠宮結衣の定位置である机の場所を思うより先に、その本の存在のほうが、蒼真の瞳を強く引いた。誰の持ち物かを確認する必要すらなかった。表紙に書かれた年号と、結衣特有の角の立った数字の筆跡が、それを証明していた。

蒼真は、棚からそのスコアブックを抜き取った。指先に触れる紙の感触は、雨のあとのグラウンドのように少しだけ湿っている。めくるたび、ページがざらりと音を立てる。その音は、まるで自分では忘れてしまったはずの時間を、無理やり引き剥がすような響きを持って耳に届いた。

春の大会の欄まで遡った記録には、単なる得点や打順の推移だけではなかった。交代の前に神谷が迷った十秒の間合い、悠斗が守備位置で焦りから何度もグラブを叩きつけた回数、打席に入れなかった自分を誰がどのように見ていたかまで、克明に記されている。

「……何、これ」

声が出た。自分では、誰にも見られていなかったと思っていた。試合という枠組みから弾き出され、ベンチという名の隔離施設でただ時間を潰すだけの存在だと、自分自身を規定していたはずだった。それなのに、ここには自分という存在の痕跡が、一投一打の重みとともに刻まれていた。蒼真がベンチに戻ったあとに指先を汚れたユニフォームで拭った仕草まで、結衣は記録していた。なぜ、ここまで。問いが喉元までせり上がるが、記録の細かさに圧倒され、言葉は空中で散った。

記録していた当の本人は、少し離れた窓際で、無表情に鉛筆を削っていた。彼女は蒼真がスコアブックを手に取ったことに気づいているはずだが、振り返ることはしない。ただ、短くなった鉛筆を持ち替えながら、次の記録のための新しいページへ視線を落とす。言葉で慰めるつもりはないらしい。その静けさが、蒼真の胸を鋭く、そしてひどく不安にさせた。

蒼真は、スコアブックを閉じて彼女の背中に歩み寄った。

「結衣」

呼ぶと、彼女は鉛筆を置いた。ゆっくりとこちらを向く。その瞳には、試合中の集中力と同じ、硬質なまでの静けさが宿っている。彼女は蒼真を見ても、驚いた顔をしない。期待も、憐れみも、責めるような感情もそこにない。あるのは、事実を見つめるだけの凪いだ視線だった。

蒼真の心臓は早鐘を打っていた。記録された時間と、自分の知る時間の乖離。それに対する戸惑いと、隠された真実を知ってしまった気まずさが、胃の腑のあたりで絡まり合う。

「……見てたのか」

それだけが、精一杯の言葉だった。問うというよりは、確認に近い。結衣は、一拍、あるいは二拍ほど間を置いて、小さくうなずいた。あまりにも短い返事だったのに、その一言だけが、部室の空気を圧迫するほど重く響く。

蒼真は、そこでそれ以上を聞けなかった。聞けば、誰かの厚意を壊してしまいそうで、同時に自分の悔しさまで、その記録の正確さによって軽くしてしまいそうだったからだ。

「どうして、こんな……」

蒼真は続きを言おうとして、やめた。結衣の顔を見つめる。彼女は何も言わない。ただ、窓の外を流れる雲を追うように視線をそらし、また鉛筆を手に取った。その沈黙は拒絶ではない。自分に踏み込みすぎないための彼女なりの距離感であり、同時に、蒼真がこの記録の重みを受け止めるための時間を与えてくれているようでもあった。

蒼真は、スコアブックを抱きかかえるようにして立ったまま、部室の埃っぽい空気を深く吸い込んだ。記録には嘘がない。そこに書かれた自分の動きは、自分自身さえも認識していなかった、あの時の呼吸や、迷いや、土の匂いまでを内包していた。

「見ててくれたんだな」

そう呟いてみたが、返事はなかった。結衣はただ、削ったばかりの鉛筆の先を指でなぞり、それから静かに部室を出て行った。残されたのは、蒼真と、一冊のスコアブック。彼は開かれたページをもう一度見つめた。そこにあるのは、出番のなかった三年の春と、誰かがそれを見続けていたという、静かで確実な証拠だった。自分の居場所は消えていなかった。ただ、今までその場所を見るための視界を、自分自身で閉ざしていただけだったのかもしれない。蒼真は、部室の窓際に貼られた背番号のメモをぼんやりと眺め、自分の中にあった悔しさの輪郭が、少しずつ、しかし確実に変わり始めているのを感じていた。その感覚は、ひどく怖く、そして少しだけ救いに満ちていた。

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棚の隅のスコアブック - 記録の春 - 誰でも作家life