第1話 九回裏のベンチ

雨上がりの県立桜ヶ丘高校グラウンドは、踏み固められた土がまだ重く、スパイクの歯が入るたびに黒い湿り気を返した。引退試合を終えたばかりの久世蒼真は、ユニフォームの上着を脱ぐ気にもなれず、ベンチの端に座ったまま動かなかった。九回裏まで名前は呼ばれず、交代も告げられず、最後に残ったのは勝敗ではなく、声が届かないまま閉じた沈黙だった。
自分は今、どこにいるのだろう。グラウンドの喧騒は遠くの雨音のように霞んで聞こえる。仲間たちの歓声や、悔しさに涙をこらえる声さえ、自分という存在を透過して、どこか別の場所へ流れていくようだった。
「おい、蒼真。いつまで座ってんだよ。部室で片付けだぞ」
浅野悠斗が隣に腰を下ろすなり、いつも通りの軽さで蒼真の肩を叩いた。何か言って場を動かしたい気配だけが先に立って、言葉は少しずれていた。蒼真は返さない。いや、返す言葉が見つからない。あるいは、その言葉を喉まで持ち上げることさえ億劫だった。紙コップのぬるくなったスポーツドリンクをひと口だけ飲み、飲み下したあとで置く。氷が溶けて薄まった甘い液体が、喉の奥で澱のように重く残る。その小さな動きだけが、自分がまだこのベンチに留まっていることを示していた。
「……おう。すぐ行く」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていて、どこか他人のもののように響いた。悠斗は蒼真の様子を気にかけながらも、深刻な空気から逃げ出したいのか、すぐに立ち上がって手元のグラブをいじり始める。彼の背中には、試合を駆け抜けた者特有の、清々しい疲労感が見えた。自分にはない、その軽さが突き刺さる。
少し離れたところで、神谷律が用具の片づけを指示している。彼の声は短い。過不足のない、軍隊のような号令。引退後の進路や、提出書類や、明日からの段取りまでを、箇条書きみたいに切り分けていく。正しい。神谷の言うことは、常に野球部としての正解だった。だからこそ、蒼真にはそれが氷のように冷たく聞こえた。ベンチに残ったままの胸のざらつきに、彼の言葉はあまりにも鋭すぎて、うまく触れることができない。
蒼真は立ち上がれずにいた。ユニフォームの背中は汗で乾ききらず、湿った布が皮膚に貼りつくように重い。グラウンドから吹く風には、雨と土と、使い終えた革の匂いが混じっていた。それは自分にとって、これまでの三年間のすべてであり、同時に、この場所にはもう自分の居場所がないことを告げる匂いでもあった。
「蒼真?」
悠斗が振り返る。その顔には、隠しきれない当惑が浮かんでいた。蒼真は無意識のうちに拳を握りしめ、スパイクの先で土をえぐる。試合には負けた。けれど、それ以上に自分を追い詰めているのは、最後の一球まで、自分の役割が空欄のままだったという事実だった。誰にも期待されず、誰にも必要とされなかった九回裏。このベンチの端で、世界から自分だけが切り離されていくような感覚に、蒼真はただ沈黙を重ねるしかなかった。
部活の終わり。その言葉が、蒼真の肩に重くのしかかる。みんなは次に進もうとしている。神谷も、悠斗も、グラウンドを整える後輩たちも。自分だけが、このベンチという小さな島に置き去りにされたまま、季節の移ろいを見守ることしかできないのだろうか。雨の残した湿気が、冷たい指先から体温を奪っていく。蒼真は、ただ静かに、終わってしまった自分の九回裏を噛み締めていた。
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