10話 最後の書き込み

冬の入り口を思わせる冷たい風が、部室の窓をガタガタと揺らしていた。グラウンドでは新チームのノックの音が響き、それは去年の春の匂いとは違う、鋭く乾いた響きを立てている。蒼真は部室の隅で、使い古したグローブの手入れを終えた。これが終われば、本当にこの場所を去ることになる。

窓際では、結衣が相変わらずスコアブックを開いている。春の大会が近づき、彼女の筆致も以前より力強くなっているように見えた。蒼真は鞄を肩にかけ、結衣の横に立った。部室の埃っぽい空気と、紙と鉛筆の匂い。この変わらない場所で、一年間、自分はどれほど孤独を正当化してきただろう。

「あのさ、結衣」

蒼真が声をかけると、結衣は書きかけのページから顔を上げ、手元を揃えた。彼女の視線はいつも変わらず、まっすぐで、どこか遠くの事実を見つめている。

「神谷が言ってたよ。お前が記録を書き継いでたのは、俺のためだけじゃなかったんだってな。部の歴史を、誰一人こぼさずに運ぶためだったって」

結衣は小さく頷いた。彼女にとって記録は、誰かを癒やすための装置である以上に、消えゆく時間を留めるための、いわば祈りのようなものだったのかもしれない。彼女は机の上に置いていたスコアブックを、閉じることなく蒼真の方へスライドさせた。ページは春の大会の予定表を過ぎ、真っ白な空白で止められている。

「ここは、あなたの場所だから」

結衣はそう言って、机の端に置いてあった短い鉛筆を差し出した。芯はきれいに削られ、まだ少しだけ余裕を残している。蒼真は、その鉛筆を指先で受け取った。驚くほど軽く、けれど重い。これは単なる筆記具ではなく、自分がそこにいたという証拠を刻むための、命の火のようなものだった。

蒼真は椅子を引いて座り、白紙のページを見つめた。今日のこと、これまでの悔しさ、ベンチの沈黙、九回裏の孤独。それらをどう言葉にすればいいのか、最初の一文字目が浮かばない。だが、ページをめくれば、そこには結衣が書き留めた、蒼真の些細な動作の記録がある。自分がただ立っていたわけではなく、何かを支え、誰かの背中を追い、そして誰かに見守られていた事実が、緻密な文字となってそこに横たわっている。

蒼真はゆっくりと、自分の名前を書き記した。出場選手リストではない。その日の部活動の記録として。続いて、その日の気温、グラウンドの状態、そして最後に、自分がようやく認めることができた今の気持ちを、短い一行にして添えた。

『役割は終わったが、見ていた景色は消えない』

書き終えると、鉛筆を置いて小さく息を吐いた。書いた文字は、驚くほど不格好で、それでいて今の自分を正確に映していた。隣で結衣が、小さく微笑んだような気がした。彼女は書き損じを消すことはしない。ただ、次の行へ進むだけだ。

「……また、書きに来てもいいか」

蒼真の問いに、結衣は視線を記録帳に戻しながら答えた。

「鉛筆は、まだ残っているわ」

蒼真は立ち上がり、部室の窓からグラウンドを見下ろした。新チームの部員たちが、必死に泥を跳ね上げている。かつての自分がそうだったように、彼らもまた、結果の出ない苦しみにいつか直面するだろう。けれど、そんなことはどうでもいい。その苦しみさえも、彼らがそこにいた証として、いつかスコアブックに刻まれるのだから。

蒼真は部室を出た。外は冬の入り口の冷気が満ちていたが、不思議と体は熱かった。九回裏に抱えていた悔しさは、今も心のどこかに突き刺さっている。けれど、それはもう自分を止める釘ではなく、次へ進むための羅針盤のように思えた。

彼はグラウンドの土を軽く踏みしめ、学校を後にした。背中越しに聞こえるノックの音を、結衣がどこかで記録しているような気がした。それは、自分が確かに生きていた春の、確かな足跡だった。蒼真は空を見上げ、深く吸い込んだ。まだ寒い。だが、確実に春は、次にここを訪れる人たちのために用意されている。蒼真は顔を上げ、自分の足で歩き始めた。もう、振り返る必要はない。自分の記録は、あの一行から始まっているのだから。

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最後の書き込み - 記録の春 - 誰でも作家life