2話 食卓に広がる一覧

暁は翌朝、橘家の食卓の端にノートを広げた。湯気の抜けた味噌汁の匂い、まだ熱を残す茶碗、窓の外で擦れ続ける蝉の声。そのどれもが、昨夜の写真を見たあとの眠りの浅さを薄く引き延ばしていた。彼はアルバムの束を一冊ずつ開き、撮影日、天気、写っている人数、立ち位置を、仕事で使う帳面のように整然と書きつけていく。

最初は、ただの整理だった。けれど、ページをめくるたびに、祖母・初江の肩の位置がほとんど毎回同じであることに気づく。集合写真の端に立つその姿は、年代が違っても不思議とぶれず、襟元の線だけが少しずつ古くなっていた。暁は指先で紙の端をなぞり、露出のむらや焼き増しの跡を探す。だが、探しているのは傷ではなく、自分の見落としだった。そうであってほしいと、まだどこかで願っていた。

それでも、願いはひとつずつ崩れる。五年前の盆、十年前の盆、さらにその前の白黒の写真。どれにも、暁に似た影が立っていた。顔の造作は年代ごとに違う。だが背を向けた姿勢だけが、まるで同じ型に押し込められたように揃っている。首の傾き、肩の張り、少し前に出る右足。暁は思わず眼鏡を外し、曇ったレンズを布で拭いた。拭いても、写真は変わらなかった。

その一枚では、現在の暁の隣に、もう一人の暁がいた。正面を向いていない。仏壇の方へわずかに身を寄せた、輪郭の薄い横顔だけが、紙焼きの白い余白に沈んでいる。暁は喉の奥が乾くのを感じながら、去年の帰省の記憶を引きずり出した。台所で母の手伝いをしていた時間。志乃が炭酸飲料を開けて、笑いながら昔話をずらしていった時間。食卓の向こうで、誰かが自分の名を呼んだ気配。どれもある。だが写真の時刻と、暁の体感だけがうまく重ならない。

「ねえ、暁。そのアルバム、あんまりじっくり見ないほうがいいわよ。目が疲れるだけだから」

背後から掛けられた美佐子の声に、暁は肩を跳ねさせた。美佐子は茶碗を拭きながら、冷ややかな視線をノートに向けている。彼女の手つきは、まるで散らかった記憶を掃き出そうとするかのように、素早く布を走らせていた。

「母さん、これ。二十年前のこの写真、僕の隣にいるのは誰?」

暁は指先で紙面を指した。美佐子は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに皿を棚へ並べ直す作業に戻った。

「誰って……そんなの、親戚の誰かじゃないの。盆なんて、昔はもっと人が溢れていたんだから。暁、あなたは小さい頃から、見えないものを探すのが好きだったけれど、いい加減にしてちょうだい」

美佐子の言葉は淀みなく流れたが、その声の端には、硬い強がりが混ざっている。彼女は振り返らず、ただ淡々と続けた。

「橘家はね、こうやって盆に集まって、みんなで顔を見合わせるだけでいいのよ。それ以上でもそれ以下でもない。古い写真を掘り返して、誰がどこにいたとか、何が写り込んだとか、そんなことをいちいち気にしてたら、この家は一日だって持たないんだから。お父さんがいなくなってから、どれだけ私がこの家の均衡を保つために……いいえ、なんでもないわ。朝ごはん、冷めないうちに食べなさい」

彼女は、暁の問いには決して正面から答えなかった。守るためなのか、それとも壊れることを恐れているのか。沈黙に重みが増す。暁はノートを閉じた。閉じるたびに、自分がこの家の一員としてではなく、家の記憶の一部として組み込まれていくような、得体の知れない焦燥が全身を駆け巡った。

ページをめくるたび、指先に紙の粉がついた。白い封筒が一枚、最後のページの裏に挟まっていた。宛名はなく、封もされていない。封筒を開くと、中には数枚の焼き増しの端が折れ曲がって入っていた。どれも仏間らしい暗さの中で撮られたものだが、暁の見知ったはずの家なのに、どこか立ち位置が違う。ひとつの写真では、仏壇の前にいる人影が、遺影と同じ高さで重なっている。暁はそれを見て、背中の皮膚の内側を冷たい指でなぞられたような気がした。

食卓の向こうから、美佐子が皿を並べる音がした。今はまだ、誰にも言えない。そう思うほど、言葉は喉の奥に堆積していく。暁は封筒をノートの下に隠し、何気ない顔を作った。だが、アルバムの中の自分を見たあとでは、台所の明るささえ少し色を失って見えた。窓辺の陽ざしは白く、縁側へ伸びる影は濃い。家の中で、時間だけがどこか別の角度へ傾き始めていた。

彼は、自分がただの「帰省した長男」であるという確信が、音を立てて崩れ去るのを感じていた。もし、このアルバムの中に写るいくつもの「背中」が、かつて帰省した暁の成れの果てだったとしたら。もし、自分という肉体が、先祖代々この家に戻り続けている何かの入れ物に過ぎないとしたら。

「暁?」

美佐子が不安そうにこちらを覗き込んでいる。暁は笑顔を作ろうとして、引きつった筋肉を無理やり動かした。

「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。……志乃さんは、まだ起きてこないの?」

「あの子はね、昨夜飲み過ぎたみたいで、まだ仏間のほうで眠ってるんじゃないかしら。あそこは涼しいから、あの子のお気に入りなのよ」

仏間。またその言葉が、心臓を冷たい針で突いた。暁は立ち上がり、椅子を引く。その動作一つ一つが、まるで人形のように不自然に感じられた。彼は封筒を隠したノートを抱え、薄暗い廊下へと歩き出した。窓の外では、依然として蝉が鳴き止まない。その鳴き声が、まるで遠い過去から届けられた警告のように、耳の奥にへばりついて離れなかった。家という場所が、私を飲み込もうとしている。そう確信しながらも、彼は自分の中に潜む「家に帰るべきもの」という呼び声に、逆らう術を見失いつつあった。

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