第3話 雨上がりの縁側

仏間へと続く廊下は、いつになく長く感じられた。昼間だというのに、窓から差し込む陽光は湿った空気に吸い込まれ、床板に落ちる影がどことなく頼りなく揺れている。私は、昨晩開いたアルバムと、その裏に隠されていた白い封筒を懐に忍ばせていた。紙の端が服越しに皮膚を擦り、妙な焦燥感を煽り立てる。仏間の入り口に近づくにつれ、湿気と白檀の香りが混ざり合い、私の肺を重く満たしていった。
納戸の前を通り過ぎる時、ふと足を止めた。襖の膨らみは、昨夜よりも明確に形を成している。誰かが中から手のひらで押しているかのような、均一な歪み。私は無意識に手を伸ばしかけ、寸前で思いとどまった。もし今、この中に私自身の「古い記録」が詰まっているのだとしたら。それを開くことは、今の私という存在を否定することに他ならないのではないか。そう考えただけで、指先が凍りつくように震えた。
仏間の戸は少しだけ開いていた。私は音を殺して中を覗く。部屋の隅にある古いMINOLTA SRT-101が、カメラ棚の上で鈍い光を放っている。その隣で、母の美佐子と叔母の志乃が、低く押し殺した声で言い争っていた。
「暁を、いつまでこうして繋ぎ止めておくつもりなの。あの子には、あの子の人生があるのよ」
志乃の声は普段の軽薄さをかなぐり捨て、切実な響きを帯びていた。美佐子は背中を向けて位牌を拭いている。その所作は異常なまでに丁寧で、布を動かすたびに位牌の角が光を弾いた。
「人生なんて、この家には最初から一つしかないわ。初江様が守り続けた橘家の輪郭の中に、暁は戻ってきたの。それ以上でも以下でもない。外でどんな名前を名乗ろうと、ここに戻れば、あの子は私たちが昔から知っている『戻るもの』に戻るのよ」
「でも、今の暁は違う! 写真の中の背中を見て、自分で気づき始めているのよ。白石さんのところへまで行って、台帳を調べたみたいだし」
「……白石さんも、余計なことをしてくれたものね」
美佐子の言葉は鋭利な刃物のように冷たかった。彼女はゆっくりと振り返り、遺影を見上げた。そこに写る祖母・初江の顔は、昨夜見たときよりも、さらに強く私の存在を拒絶しているように思えた。
「暁はね、私が一番よく知っているの。小さい頃、納戸の前で泣き出したあの日から、私はずっとあの子の背中を見続けてきた。写真に写るのが、あの子の習性なのよ。記録という媒体に、自分の輪郭を預けてしまう。それが橘家に属する者の宿命だわ」
「そんなの、あの子が可哀想すぎるわ。生きているのよ、あの子は。血も通っているし、痛みだって感じるのよ!」
「痛み? 痛みさえも、この家の記憶の一部に過ぎないわ。志乃、あなただって知っているでしょう。私たちが過去に何を犠牲にして、この家を保ってきたのかを。暁がこのまま自分を『暁』だと信じていれば、それでいいのよ。それが一番の慈悲じゃない」
私は廊下で立ち尽くしていた。二人の会話は、私が積み上げてきた理性や理屈を、まるで塵のように吹き飛ばしていった。私は生きているのではないのか。単なる「戻る者」としての器に、記憶の残滓を流し込まれているだけの存在なのか。
「……二人とも、何を隠しているんだ」
思わず口にした言葉は、自分でも驚くほど震えていた。仏間の戸を押し開くと、二人は同時に硬直した。美佐子が布を握りしめ、志乃が顔を逸らす。仏壇の奥、白檀の煙の向こうに、私は自分の背中を見た。いや、それは「私の背中」に似た、何か別の記録の塊だった。
「暁……」
美佐子が力なく私の方へ手を伸ばす。その表情には、母としての情愛と、家を守るための冷酷な諦念が混ざり合っていた。
「いい? 暁。真実を知るということは、この家から出られなくなるということよ。写真の中のあなたは、一度もこの家から出たことがない。あなたたちが外で見ているものは、ただの影なの。今のあなたが、どこで何をしようと、この家という記録媒体の空白を埋めるために、あなたはいつだってここに戻ってくる」
美佐子は一歩近づき、私の胸元を指さした。
「その封筒を出しなさい。それの中身を見れば、あなたが何者として記録されてきたのか、すべて分かるわ。でも、見てしまったら最後、あなたはもう、自分の肉体という現実を信じられなくなる」
私は懐に忍ばせた封筒に触れた。それは驚くほど熱を持っていた。私は震える手で封筒を取り出し、ゆっくりと中身を広げる。そこには、数枚の紙焼きが入っていた。最初は私の幼少期、次は学生時代、そして数年前の姿。だが、すべてにおいて、私の顔はぼやけ、輪郭は周囲の風景に溶け込んでいる。そして、私が写っているはずのすべての場所で、必ず誰か別の人物が、私と同じポーズで仏壇に向かって手を合わせていた。
「これは……」
「それが、橘家の記憶よ。私たちは、あなたという存在を失わないために、何代もかけて『暁』という名前を、戻るべき者に与え続けてきたの」
志乃が泣きそうな声で続けた。
「ごめんね、暁。あんたを、ただの人間として愛したかったのに。でも、この家はあんたを離さないの。写真が、記録が、あんたをここへ引き寄せるのよ」
私はその場で、崩れ落ちるように座り込んだ。畳から伝わる湿った冷気が、足の先から全身へと侵食していく。私は「暁」という個としてここにいるのではないのか。この家の記憶が、私という器を借りて、盆のたびに上演しているだけの幻影なのか。
「いやだ……」
私は封筒を握りしめ、仏壇の奥にある遺影を睨みつけた。初江の顔が、わずかに歪んだような気がした。私は立ち上がり、ふらつく足でカメラ棚へ向かった。MINOLTA SRT-101。祖父から受け継がれた、記録の装置。私はそれを手に取り、窓の外の強い陽光に向けてシャッターを切った。
何もない、空っぽの虚空。その中に、私の輪郭が一つだけ、鮮明に写るはずだ。もし写らなければ、私はこの家の記録に完全に回収される。
カシャリ、という乾いた音が、仏間に響いた。その瞬間、家全体が深い呼吸をしたように軋んだ。美佐子が悲鳴を上げ、志乃が両手で顔を覆う。私は手の中にあるカメラを握りしめたまま、その場から一歩も動けなかった。記録と現実。そのどちらが勝利したのか。私はまだ、答えを知る術を持たないまま、薄暗い仏間の中心に立ち尽くしていた。蝉の声が、まるで私の存在を削り取るかのように、耳を劈くほどに高まっていた。
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