第1話 雨上がりの台所

橘家の敷地に入った瞬間、都会で忘れていた湿り気が、容赦なく肌を伝った。 先ほどまで降っていた雨が、黒い石畳の上に深い陰影を落としている。タイヤが泥を噛む、鈍い音がやむと、庭の奥から蝉時雨が波のように押し寄せた。家は変わっていない。瓦の連なり、ひび割れた塀、そして屋根にへばりつく苔の匂いまで。すべてが記憶の通りだが、同時に、そこに居座る空気だけが微妙に澱んでいるように感じられた。
縁側に足を踏み入れると、廊下の突き当たりにある仏間の闇が、こちらの気配を吸い込むように口を開けている。 台所へ向かうと、母の美佐子が背を向けて立っていた。複数の鍋から上がる湯気で、彼女の輪郭は少しぼやけて見える。
「おかえり。予定より早かったね」
美佐子は振り返りもせず、菜箸で鍋の中身を整えた。包丁がまな板を打つリズミカルな音が、彼女の言葉を切り刻むように響く。
「渋滞に巻き込まれるかと思って、早めに出たんだ」
「そう。親戚は夕方に来るから、それまで座敷で休んでなさい。あ、暁。仏間には線香を上げておいてくれる? 初江様も待っておられるだろうから」
美佐子の言葉は手際よく、盆の段取りを優先している。だが、仏間という単語が出た瞬間、彼女の背中がわずかに硬直したのを、私は見逃さなかった。 背後で、叔母の志乃が茶を盆に乗せて現れる。彼女は氷の溶ける音をさせて、楽しげに笑った。
「まあ、暁ったら随分と神妙な顔をして。都会暮らしで痩せたんじゃない? 影が薄いよ、まるで盆に戻ってきたばかりの精霊みたいだね」
「精霊って……志乃さん、相変わらず冗談がきつい」
「あら、冗談なんかじゃないわよ。この家はね、盆になると時間が少しだけ混ざるんだから。暁も、自分が本当に生きて帰ってきたのか、それともふらりと家に吸い寄せられただけなのか、時々分からなくなるでしょう?」
志乃は悪戯っぽく笑い、氷の入ったグラスを私に差し出した。冷たい結露が、私の掌にまとわりつく。私はそれを受け取ると、無意識にテーブルの端を整えようとしていた。乱れた位置にある皿、少しずれた箸の先。それらを完璧な配置に戻さなければ、この家の均衡が崩れてしまうような、奇妙な強迫観念が指先に宿っている。
「……整頓癖は相変わらずね」
美佐子が肩越しにこちらを見た。その視線には、子を想う慈しみと、何かを過剰に警戒する鋭さが同居していた。
「気になるんだ。この家は、少しだけ歪んでいるように見える」
私がそう言うと、台所の空気が不自然に止まった。煮汁が沸騰する泡の音だけが、やけに大きく聞こえる。美佐子は視線をすぐに台所のシンクへ落とし、志乃は扇子をぱたぱたと忙しなく動かし始めた。
「歪んでいるなんて、そんな。ただ古いだけよ。建物はね、人が住まなくなるとすぐに捻じれるものなの。暁も、あまり仏間の奥の方ばかり見ちゃだめよ。あそこは湿気が多くて、長いこと使っていないんだから」
「そうそう。美佐子姉さんの言う通り。仏間なんて、お盆のお客さんをお迎えするためのただの飾り場なんだから、暁がわざわざ確かめに行く必要なんてないのよ。ねえ、夕飯は何がいい? 今日は少し多めに仕込んであるの」
二人とも、私が仏間へ向かうことを先回りして制している。まるで、そこにある「何か」と私を鉢合わせさせたくないかのように。 私は何も言わず、靴を脱いだ位置を再度確認し、荷物を廊下の端へ端へと寄せた。私の意識の外側で、私の身体が家という秩序に従い、静かに、そして執拗に適合しようとしている。その自分自身の振る舞いに、言いようのない寒気が走った。
私はあえて言った。
「いや、久しぶりに帰ってきたんだ。祖母の写真に、挨拶くらいはしておかないとね。最近のカメラは性能がいいから、一度ちゃんと撮って、今の自分の姿を報告しておこうと思うんだ」
美佐子の手が、シンクの上で一度だけ空を掴んだ。志乃の笑い声が、途端にひび割れたものになった。 仏間の戸口から流れてくる白檀の線香の匂いは、まるで湿り気を帯びた古い死者の記憶そのものだった。私が近づくたびに、家そのものが、息を潜めて私の行動を監視している――そんな錯覚が、夏の暑さの中で確かな予感へと変わっていく。
「挨拶だけにしてね。長居は無用よ、暁」
美佐子の背中越しに言われたその一言は、助言というよりも、境界線を引くための防波堤のように聞こえた。私は静かに仏間の闇へと足を踏み入れた。家の中だけ、外とは違う速度で時間が回っている。私は自分の足音が、畳に吸い込まれていくのを感じながら、薄暗い部屋の奥に置かれた遺影へと歩み寄った。そこに何が待っているのか、確かめなければならないという衝動は、すでに私の理性よりも深い場所でうごめいていた。
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