2話 資料室の匂い

雨の降り続く午後、篠崎透は図書館の司書である相川千紗に案内され、旧北峰小学校の一角にある資料室へ入った。扉を開けた瞬間、閉ざされた時を閉じ込めたような匂いが鼻腔を突いた。湿った木材、カビた埃、そして永い沈黙を吸い込んだ古い紙の匂いだ。窓の高い位置には、誰かが取り壊しを拒むように貼り直したガムテープの跡が黄色く残り、棚には町史、卒業文集、古い帳簿が年代順でも無造作でもない、特定の誰かの癖の強い並べ方で収められていた。

相川は、まず静かに机の上の資料を整えた。篠崎が背後の机の上にある古びた紙束の角を、無意識に手袋越しにきっちりと合わせる姿を見て、彼女は何も言わずに自分のメモ帳を開いた。彼女は慰める言葉を吐くよりも先に、必要な場所を差し出す女だった。篠崎は深呼吸をして、あの日、郵便受けに届いた封書の便箋を慎重に保存袋から取り出した。

「紙の縁が、少しだけ波打っている」

篠崎はそう呟き、指の腹で紙の端をなぞった。湿気はとうに抜けているはずなのに、彼の指先には三十年前の湿度、あるいは古い水の感触が妙な生々しさで残る。便箋の書き出しはあまりに簡素で、ただ「理央へ」とだけあった。同封されていた謝罪文はさらに短く、途中で何度も言い直したような、澱んだ筆圧が残っていた。それは言葉にしなかった迷いと、言葉にしてはならないという決意が、そのまま紙に押し込まれているようだった。

相川は、町史の索引を丁寧にめくりながら、旧北峰小学校の統廃合前後の記述を拾い出していく。 「学校が閉じてからも、ここは資料室として半ば放置されていました。地域の方々が、必要な時だけ鍵を開けていたみたいです。ただ、夏祭りの記録に関しては……意図的に誰かが抜き取ったかのように、一部だけがごっそりと欠けている」 「意図的、か」 「はい。そして、これが旧三年二組の卒業アルバムの控えです」

彼女が差し出した資料には、あるページに不自然な隙間があった。ページの糊が無理やり剥がされ、紙の繊維がささくれたような、酷く無残な跡だ。

篠崎はそれを見て、資料室の隅に放置された一台の古い机に目を奪われた。彼が三年二組の教室で見つけたものと同じように、天板に無数の彫り跡が残されている。篠崎は導かれるようにそこへ歩み寄ると、震える手でその傷に触れた。

その瞬間、頭の奥で淡い疼きが走った。痛みは瞬間的で、すぐに引いていったが、残ったのは鋭い痛みよりも、遠くで聞いた太鼓の音に似た、空虚で冷え切った空白だった。

篠崎は自分の指先を見下ろし、なぜか爪の間に校庭の土のような、乾いた灰色の泥が残っていないか確かめる。相川はその様子を見て、無理に問い詰めようとはせず、代わりに町史の複写を差し出した。紙の上には、三十年前の夏祭りの日付だけが、他の記述より少しだけ濃く、執念のように印字されていた。

「篠崎さん、大丈夫ですか」 「……ああ。ただ、思い出しそうで、思い出せない。この彫り跡、この紙の匂い、そして祭りの夜。僕がここにいたはずだという感覚だけが、どうしてこんなにも生々しいんだ」

篠崎の独白に、相川は静かに眼鏡を直した。

「記憶は記録よりも脆いものです。でも、篠崎さんが持っているその封書の違和感は、記録が正しいと言っているわけではありません。逆に、記録が歪められたからこそ、あなたの空白があるのかもしれない」

彼女の言葉は、篠崎の胸に静かに、だが深く刺さった。もしも自分の記憶が、誰かの都合で封じられたものだとしたら。篠崎は再び封書の便箋を見つめる。そこに書かれた「理央へ」という文字が、今はまるで、何者かの告白であると同時に、救いを求める叫びのように思えてならなかった。

「もう一度、あの机の場所へ戻ろう」 「ええ、行きましょう。その前に、少しだけお茶を淹れますか? 身体が冷えています」

相川の控えめな気遣いに、篠崎は頷いた。資料室の窓外では、灰色の雨が降り続いている。その雨音が、かつてこの町から消えた少女の足音のように聞こえるのは、気のせいだけではないはずだった。篠崎はペンを取り出し、ノートの端に、浮かび上がる過去の断片を書き留めた。自分の手は、相川が見ていても確信を持って動き続けている。その筆跡だけは、三十年前の何かを呼び戻そうとしているかのように、迷いなく走った。

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資料室の匂い - 机の封書 - 誰でも作家life