1話 雨の匂いの教室

廃校整理の依頼を受け、旧北峰小学校の門をくぐったのは午後過ぎのことだった。山あいに位置するこの町には、昭和五十年代の記憶がそのまま凍りついたような木造校舎が残っている。かつては子供たちの嬌声で満たされていたはずの場所が、今は湿気と埃と、そして誰にも忘れ去られた沈黙の澱(おり)で満たされていた。

靴底が濡れた木板に触れるたび、ぎしりと悲鳴に近い音が廊下に響く。雨は外で上がったばかりらしく、校舎のなかには、雨雲がまだ校庭の隅に居座っているような、重たくて冷たい匂いが立ち込めていた。剥げた塗装の壁面、窓際に積み重なった埃の筋。長い年月、人の気配を拒絶してきたこの空間は、ある種の聖域のように静まり返っている。

人が消えたあとも、ここは人がいた形を忘れていないのだ。

篠崎透は、自身の作業服の襟を正し、持参した調査用の手袋をゆっくりと嵌めた。湿った紙を扱う際、彼はいつも祈るような手つきになる。指先は敏感で、記録が刻まれたものの歴史を読み取るには、この手袋越しに伝わる感触だけが頼りだった。

旧三年二組の教室。扉を開けると、そこには時間が止まったような光景があった。黒板には消えかけたチョークの跡があり、椅子は乱雑な角度で放置されている。篠崎は無意識に息を止め、一歩ずつ奥へと進んだ。窓から差し込む鈍い光が、床に落ちた乾いた文集の束を照らしている。

窓の下、教室の最後列に位置する一つの机が、周囲の家具とは異質な風情を放っていた。他の机が埃に埋もれ、ただ静かに朽ちていくのを待っている中で、その机だけがまるで生きているかのように、深く、そして執拗に傷つけられていたからだ。

篠崎はそこに歩み寄る。彫刻刀の刃が木目を裂き、何度も、何度も同じ場所をなぞり続けた跡。指先で触れると、ざらりとした木のささくれが手袋の繊維に引っかかった。ただの落書きではない。そこに宿るエネルギーは、爪の先にまで痛みを伝えるほどの執念だった。

「瀬名理央……」

口の中で名前を転がした瞬間、篠崎の脳裏に、硬い金属音のような違和感が走った。彫り込まれた日付を見る。「1994.7.18」。

その文字を視線でなぞった瞬間だった。頭の奥の一番薄い膜が、鋭利な刃物で裂かれるような痛みに襲われた。視界の端が急速に白く滲み、足元から現実の感覚が根こそぎ奪われていく。

耳の奥で、異様な音がした。

ドォーン、と低く響く太鼓の音。祭りの喧騒。屋台の焼ける匂い。提灯の赤い光が、視界の外側で無数に揺らめく。それらは全て、断片的な記憶の残滓として篠崎の意識を侵食した。夏祭りの賑わいなのか、遠い過去の断絶なのか判別できない。ただ、音の粒だけが妙に身体の奥へ沈み込み、彼を縛り付ける。

「……何が、あった」

篠崎は机に手をついたまま、しばらく動けなかった。全身が冷や汗で濡れている。自分が何のためにこの町へ来たと考えていたのか、この机の何を探しに来たのか、その輪郭がみるみると薄れていく。かつて確信を持って積み上げてきたはずの自身の記憶が、まるで砂のように足元からこぼれ落ちるのを感じた。

教室の冷たい空気が、彼の呼吸を阻む。かつてこの机に座っていた理央という少女は、何を思い、何から逃げるために、こんなにも深く名を刻んだのか。

篠崎は、震える手でルーペを取り出し、彫られた文字の細部を覗き込んだ。そこにあるのは、単なる名前ではない。この場所から消された誰かの、最後の抵抗のようなものだった。

沈黙が教室を支配するなか、篠崎の意識は、祭りの太鼓の音に飲み込まれていった。自分が何を探していたのかを忘れても、この深い彫り跡だけは、彼が二度と忘れられない“始まり”として、そこに刻まれていた。

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