第3話 地図に戻る雨

窓の外では、秋の気配を孕んだ雨が旧北峰小学校の木造校舎を執拗に叩き続けていた。屋根を打つ雨音は、数十年前の記憶をかき消すようなリズムを刻んでいる。
篠崎透は資料室の古い机に突っ伏すようにして、三十年前に届いた封書から取り出した校庭の見取り図を広げた。相川千紗が町立図書館の奥底から掘り出してきた、昭和末期の校舎配置図と照らし合わせる。図面の上で、ペンが踊る。旧三年二組の教室、保健室の廊下、そして裏門へと繋がる隘路。それぞれの点が線で結ばれたとき、篠崎の背筋に冷たいものが走った。
「ここです。この場所だけが、当時の夏祭りの人流から完全に隔離されている」
篠崎の声はひどく掠れていた。相川が静かに頷き、資料室の白い光の下でいとう澄子が持ち込んだ集合写真を広げる。切り抜かれた少女の顔の穴は、まるで黒い太陽のように、写真の中でそこだけを虚無に塗り替えていた。
「この切り抜きをしたのは、当時の記録を管理していた人間よ。顔を消すことで、理央という存在を『いなかったこと』にしたの。彼女が祭りの夜に校舎へ戻った事実さえ消せば、この町の平穏は保たれると信じたのでしょう」
いとう澄子の言葉には、紙の質感を知り尽くした者特有の冷徹な断定があった。篠崎は資料室に並べられた、神代誠が署から持ってきた資料を振り返る。久我春江の学級日誌、木島修造が作成に関わった祭りの実行記録、そして署に残る唯一の「失踪」に関する照会メモ。
「見てください、この時系列」
神代誠が黒い手帳を指し示した。彼の指先は、不自然に並び替えられた日付の余白をなぞっている。
「久我先生の記録にある補習の時間と、木島氏が証言する祭りの準備開始時間が、どう調整しても一時間の空白を生む。その一時間のあいだに、理央は校舎にいた。そして、誰かが彼女を裏門から連れ出した。あるいは……逃がした」
篠崎はその言葉を聞き、資料室に漂う古紙の匂いの中に、遠い記憶の残滓を探した。雨音の向こう側から聞こえるのは、提灯の明かりが揺れる音と、誰かが自分を呼ぶ声だ。いや、呼んでいるのではない。自分自身の声で、誰かに逃げろと叫んでいる。
「僕は、ただの調査員じゃない。僕は、理央が逃げるための鍵を握っていたんだ」

篠崎が手袋を外し、震える指先で図面の裏側を撫でる。そこに隠されていたのは、差出人が遺した「訂正」の走り書きだった。
『名も、記憶も、すべては守るための偽装だった。理央は逃げ延びた。だが、その代償を透、お前が払った』
その一文を読んだ瞬間、篠崎の脳裏に、夜の雨に濡れた校庭の姿がフラッシュバックした。半分に割れた校章ボタンを握りしめ、必死に裏門を目指したあの日。彼は理央を逃がし、その直後に差出人によって記憶を封じられたのだ。自分を守るためという歪んだ善意によって。
相川は、篠崎の顔色を見て、赤い付箋を貼った資料を静かに手元へ引き寄せた。
「篠崎さん。これは暴くための調査ではないのかもしれませんね。消された名前を、ただそこに存在させるための」
「ああ。消えたのは理央じゃない。僕たちが、彼女を消したんだ」
神代が資料を閉じ、重い音を立てて机に置いた。雨音の合間に、遠くの街灯が濡れた校庭を鈍く光らせている。篠崎は、かつての三年二組の机に刻まれていた名前を思った。あれは、理央が自分を忘れないでほしいと願った、唯一の足跡だった。
「訂正は、もう済んでいる」
篠崎は図面を折り畳み、胸元に仕舞った。三十年越しの封書が、ようやく彼の体温で温まり始める。それは、自分が何者であったかを証明する、最後の鍵だった。雨は依然として降り続いているが、その匂いはもはや湿った不快なものではなく、閉ざされていた過去が澱から解き放たれるための、静かな洗い流しのように感じられた。
資料室の窓ガラスが震える。篠崎は立ち上がり、相川と視線を合わせた。これから向かう先には、三十年前の夜から一度も動いていない、もう一人の自分が待っているはずだった。真相を暴くことは救いではない。だが、名を呼ぶことだけは、失われた場所を存在させ直す、たったひとつの弔いだった。
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