2話 見張りの障子

里恵は、由芽が書き留めた一行目の時刻を指でなぞったあと、縁側の障子を半分だけ開けた。夜明け前の空はまだ青く、庭の朝顔は閉じたまま、花弁のふちだけが濡れた暗さを抱いている。三和土には、夫・恒一の黒い革靴、祖母・すえの草履、娘・由芽の白いスニーカー、息子・晴斗の上履き、里恵の作業靴が、昨夜と同じ順で並んでいた。里恵は靴先の向きをそろえ、かかとの間隔まで揃え、最後に指先で革靴のつま先を軽く叩く。乾いた音が一つ返ってきて、それだけで胸の奥の糸が少しだけ締まる。

由芽はその横で、スマホの画面を暗くしたまま、メモ欄に「見張り一日目」とだけ残した。寝不足で目の下にうっすら影があるのに、視線だけは妙に冴えている。畳の上に膝を立てたまま、縁側の外と、三和土の影と、庭の隅に置かれた朝顔の鉢を順に見比べる。里恵が「眠ければ入ってていい」と言っても、由芽は首を横に振った。大丈夫、と言わない代わりに、指先でメモをもう一度開く。その癖が、昔からのものだと里恵は知っている。曖昧なものを残したままにできない子だ。

「……ねえ、母さん。本当に靴が歩いてどこかへ行っているわけじゃないよね」

由芽の声は低く、蚊の鳴くような音だった。里恵は小さく肩をすくめて、障子の桟を握り直す。

「馬鹿なことを言わないで。そんなのは、あの……すえさんが昔話で言ったような、ただの古い迷信よ。でも、数が合わない。それだけが事実なの。靴が勝手に動くはずがないし、泥棒が入った形跡もない。だとしたら、私たちが何かの拍子に見落としているか、あるいは……」

里恵は言葉を切った。それ以上口にすれば、家という平穏な器がひび割れていくのが分かっていたからだ。由芽はスマホの光をわずかに漏らし、淡々と続けた。

「父さんの靴が消えてから、食卓の会話が半分になった。私がスニーカーを失くした翌朝、弟の晴斗は自分の上履きを隠したのかと疑われて泣いた。父さんは疲れきっているけれど、その疲れは工場での労働のせいだけじゃない。家の中で、自分の居場所を一つずつ手放しているような気がするの。記録を残せば残すほど、この家の輪郭がぼやけていく」

「由芽、あなたのその記録が、かえって私たちの不安を形にしているだけじゃないの?」

「記録しなければ、私たちは誰がいつ欠けたのかさえ忘れてしまう! 靴が消えるたび、私たちは一言ずつ言葉を失っているんだよ。今日、もし次が消えたら、次は誰の番になると思う?」

里恵は娘の言葉を遮ることができなかった。由芽の言う通りだった。家を守るために記録し、数を数え、整えようとする所作のすべてが、むしろ消失をより鮮明に描き出しているという矛盾。里恵はエプロンを強く握りしめ、濡れた指先で唇を震わせる。

夜は動かなかった。虫の声も、裏手の空き家の軋みも、何も起こらない。起こらないことが続くほど、見張りの時間だけが鈍く長くなる。蚊取り線香の煙が、風のない縁側で細くうねり、鼻の奥に苦い匂いを残した。里恵はその匂いを吸いながら、手のひらの汗を何度もエプロンで拭う。由芽は両膝の間にスマホを挟んで、画面を見ずに持ち場を保った。

朝の薄明かりが白みはじめたころ、靴はまだあった。里恵は一度だけ台所へ戻り、湯を沸かす音を聞きながら、耳を縁側へ残した。戻ると、由芽が少し顔色を変えていた。だが靴は五足並んだまま、何も変わっていないように見える。里恵はその「変わっていない」を信用できず、五足を数え直した。ひとつ、ふたつ、みっつ。そこで由芽が小さく息を止める。里恵の視線が、三和土の端に落ちた。靴の並びの隙間が、ほんのわずか広くなっている。革靴のかかとが、たしかに一歩ぶんだけ後ろへずれていた。

里恵がしゃがみ込むと、土は乾いて見えたのに、革靴の下だけ色が濃い。指を伸ばすと、冷たいはずの土が、妙にぬめるような温度を持っている。里恵は唇を引き結び、すぐに手を引いた。何かが触れた感触ではない。ただ、そこだけが他と違う。違うということだけが、はっきりしていた。

「見て、由芽。これ……濡れている。昨日も、その前も、この場所だけはこうだったわ」

由芽は震える指でスマホのカメラを向けた。シャッター音が鳴った。それは静かな家の空気を切り裂くような鋭い音だった。里恵は靴の並びを再び直そうとしたが、指先が凍りついたように止まった。並びを直すこと。それが今、この家で最もしてはいけないことのような気がしたのだ。

「触らないで、母さん。そのままにして」

「でも、バラバラなままでは……」

「父さんが消えた時も、私が消えた時も、並びを整えたら余計に何かが削れた。整えることは、この家から誰かを追い出す手伝いをしてるんじゃないか。靴を揃えることで、私たちは家に留まるための入り口を塞いでいるのかも」

由芽の声は極限まで張り詰めていた。里恵は手を空中に止めたまま、縁側の外、湿った朝の庭を見つめた。そこにはただ、朝顔の青い花が一つだけ、死んだように開いている。家の中では、誰も起きてこない。父親の不在、子供たちの沈黙、そして靴の数だけが、この家の重力となっていた。里恵は立ち上がった。足元がふらつき、縁側のきしむ音が、朝の静寂に大きく響いた。これ以上、何を数えればいいのか。そう自問するたび、指先から家が崩れていくような感覚が、里恵の心を侵食し続けていた。

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見張りの障子 - 靴の消失 - 誰でも作家life