第3話 空席のかたち

由芽はほとんど眠らないまま、二階の自室でスマホの画面を何度も拡大していた。写真フォルダには、縁側の三和土に並んだ靴が、毎朝ほぼ同じ角度で切り取られている。恒一の黒い革靴は最初の数枚では確かにそこにあり、次の朝にはきれいに抜け落ちている。由芽は日付だけでなく、撮った時刻、天気、食卓で誰が何を言ったか、里恵が何回名前を呼び直したかまでメモに写し取っていた。
メモを追ううち、ひとつの並びがじわじわ形を持ちはじめる。恒一の靴が消えた日から、食卓の会話はひどく短くなっていた。由芽自身の白いスニーカーが消えた日の朝には、里恵が「由芽」と呼んでから返事が返るまでの間が長くなっている。晴斗の上履きが消えたあとには、家の中の物が少しずつ揃わなくなっていた。湯呑みの向き、椅子の角度、朝顔の鉢の位置。いちいち直さなければ気が済まなかった由芽自身が、ある日を境に、直し忘れを見過ごしている。
写真を拡大すると、靴そのものが消えた跡というより、空席だけが妙に明るい。陽の斜めの白さが、その部分だけ薄く広がっている。由芽は指先で画面を擦りながら、そこが「欠けた場所」ではなく「空いてしまった場所」なのだと感じた。空いていることだけが、家の中でくっきり残る。その感覚が、記録している自分の手を冷やした。
台所から茶碗の触れ合う音がして、由芽は階下へ降りる。里恵は白いエプロンの紐を結び直しながら、冷えた麦茶を注いでいた。恒一の席は、何も置かれないまま食卓の端にある。そこだけが、椅子の脚の影まで妙に正しく整っていて、かえって不自然だった。由芽はその空席を見て、初めて記録が「守る」だけでなく、欠落の輪郭を育てているのではないかと思いはじめる。見返すほど、空白の形がはっきりしてしまうからだ。
由芽は、母の背中に向かって小さく声をかけた。
「母さん。この椅子、もうしまってもいいんじゃないかな。座る人がいないのに、そこにあるだけで、食卓のバランスが変に見えるよ」
里恵は手を止め、ゆっくりと振り向いた。その目元には深い疲労が刻まれているが、表情は驚くほど硬かった。
「しまえば、本当に恒一がいなくなるみたいじゃない。私は、まだ家を整えることを諦めていないの。数は減っても、誰がどこにいたのかを私が記憶していれば、この家はまだ五人の場所なのよ」
由芽は、母の言葉の中に隠された執念を聞いた。それは母親としての矜持であり、同時に家という殻が崩れることを拒絶する祈りにも似ている。しかし、その祈りは、靴の消失という物理的な欠落を埋める力を持っていない。由芽はテーブルの上に置いたスマホを、画面が伏せられるように静かに閉じた。
「でも、私が記録した写真を見て。父さんの靴が消えた日、私たちは父さんの不在を認めないまま、食卓で同じように食事を続けた。私が消えた時も、晴斗の靴がなくなった時も、私たちは誰かが欠けるたびに、その空間を『なかったこと』にして、空いた席をただ眺めているだけだった。これって、守っていることなのかな。それとも、ゆっくりと家そのものが、私たちを追い出そうとしているだけなのかな」

「由芽、何が言いたいの?」
「私が言いたいのはね、母さん。私たちが整えれば整えるほど、この家は欠けた部分を『正規の配置』として学習しているみたいだってこと。父さんの空席は、父さんがいないことが当たり前だと教えてくれる。私の欠落は、私がいないことを前提に整えられる。私たちは、靴を数えることで、消えていく自分たちの形をなぞっているだけなんじゃないかな」
由芽の声には、十代特有の鋭さと、すべてを見つめてしまった者だけが持つ諦観が混じっていた。里恵はその鋭い言葉に、言葉を詰まらせた。家を保つための所作が、かえって自分たちの存在を希薄にしているという逆説。それは、里恵が何年もかけて築いてきた「管理する母親」という存在意義そのものを否定するものだった。
「そんなこと、信じられないわ。靴はただの靴よ。家族の靴を揃えてあげることは、母親としてのささやかな、でも大切な願いなの。それがどうして、私たちが消える理由になるというの」
「願いじゃなくて、儀式だよ。すえおばあちゃんが言った『数えるな』の意味、今ならわかる気がする。数えて確認すること自体が、この家に対して『誰かがいなくなった』という情報を与え続けているんだ。家は、不在を証明することで、その場を空席に変えていく。私たちは、家という巨大な記憶の装置の中で、ゆっくりと名前を失わされているんだよ」
由芽の言葉が終わると、台所には重い沈黙が降りた。蚊取り線香の煙が、食卓の真上で停滞し、二人の間の空気を濁らせていく。里恵は、自分の手を見つめた。家族の靴を拭き続け、位置を揃え続けたその手は、今や小刻みに震えている。自分が守りたかったのは家族なのか、それとも「五人家族」という名前の皮だけだったのか。
「……由芽。もしそうなら、私たちはどうすればいいの? 数えるのをやめて、空席を空席のままにして、このまま誰もいなくなるのを待つべきだと言うの?」
「わからない。でも、記録するのは、もうやめるよ。これ以上、空白を書き記すのは、自分たちが透明になっていくのを手伝うみたいで怖いから」
由芽はそう言って、スマホを食卓の中央に置いた。それは、彼女が観察者であることを放棄する宣言だった。里恵は、その冷たい黒い長方形をじっと見つめる。靴の並び、椅子の角度、食卓の会話量。それらすべてを管理し、整えてきた時間は、果たして何だったのか。
外では蝉が、まるでこの静寂を嘲笑うかのように、一斉に鳴き声を強めた。空席の椅子が、夏の光を浴びて、どこまでも空虚に白く輝いている。里恵は、その眩しさに目を細め、ようやく一つの真実を理解した。家を守るということは、そこにあるものを維持することではなく、失われることを受け入れることだったのだ。しかし、その時すでに、彼女の輪郭は薄く引き伸ばされ、縁側の三和土に誰かの足跡を増やす準備が始まっていた。
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