第1話 梅雨明けの三和土

梅雨明けの朝、木場家の縁側は、夜のあいだに溜めこんだ湿気をまだ吐ききっていなかった。打ち水をしたばかりの三和土は黒く光り、朝顔の鉢からは昨夜の雨を含んだ葉の匂いが、むっと立ちのぼる。わたしは台所の戸を片手で押さえながら、縁側に並べた靴をいつもの順に見た。夫・恒一の黒い革靴、祖母・すえの古い草履、娘・由芽の白いスニーカー、息子・晴斗の上履き、そしてわたしの作業靴。五足。数は合っている。いつも通りであることに、まず安堵の息をつく。
だが、茶碗を片づけて戻ってきたとき、違和感がそこにあった。恒一の革靴だけが、三和土から消えていた。
縁側に人が出入りした気配はない。裏口の戸も閉まっている。庭のぬかるみは朝の光を受けて乾きはじめ、誰かが踏み荒らした跡はない。わたしはしゃがみこみ、靴があった場所の土を指先でなぞった。片方だけ、浅く削れたような溝が見える。風が吹けば消えそうな、薄い爪痕だった。
「恒一、靴知らない?」
庭先で煙草を吸っていた夫は、片眉をわずかに上げただけだった。
「置き場所、変えたんじゃないか」
夫はそれだけ言って、工場へ行く支度を続けた。洗面台で歯ブラシのコップを置く音、ベルトを締める金具の乾いた音、そうしたいつもの生活の音が、かえってわたしの耳に鋭く突き刺さる。忙しさを理由にすべてを流そうとするその背中に、わたしは言いようのない焦燥を感じた。家は、誰かが毎日見て、数えて、初めて保たれるものなのに。
由芽はそのやり取りを見てから、言葉より先にスマホを構えた。靴の並び、三和土の濡れ具合、父の空いた足元まで、慣れた手つきで画面に収める。メモ欄には日付、天気、誰が何と言ったかを順に打つ。文字にすることで、少なくとも次の朝まではこの欠落が夢ではないと残る気がしたのだろうか。娘の背中が、私の不安をなぞるように小さく震えていた。
晴斗だけは、ひとりで朝顔の鉢を覗きこんでいた。
「歩いてどこかへ行ったんだよ」
その声は軽かった。けれど、その笑い方は、面白がるふりをしている子どものそれだ。わたしは思わず返事をしかけたが、やめた。草履の鼻緒を直している祖母・すえが、視線だけを縁側に向けていたからだ。祖母は革靴の消えた場所を見ず、ただ三和土の湿り具合を確かめるように、皺の刻まれた指先で土を軽く押した。

「すえさん、靴が一つ減ってるのよ」
わたしがそう声をかけると、祖母はしばらく黙り込み、やがて縁側の柱に体重を預けるようにしてこう言った。
「昔、この家では靴音を数えるな、と言い伝えがあった。数えた分だけ、誰かの足元が家から離れていくんだとね」
その言葉は、まるで呪いのように、夏の静寂の中に冷たく落ちた。
その朝、わたしは靴棚の奥、玄関の隅、洗濯機の横、台所の勝手口まで探した。革靴はどこにもない。見つからないのに、家の中では誰も大きく騒がない。その静けさが、最初は不気味ではなく、ただ忙しさに紛れた小さな違和感に見えた。
だが朝顔の葉の上で、雫が一滴だけ遅れて落ちた音を聞いたとき、わたしはぞっとするような確信を持った。何かを失くしたのは靴ではなく、靴の置かれていたこの場所の方ではないか、と。家そのものが、家族を少しずつ外へ追い出そうとしているのではないか。
わたしはエプロンをきつく結び直し、もう一度、三和土に並んだ靴の数を数え直した。
残りは四足。 明日も、明後日も、この数は合っているのだろうか。そんな不安を打ち消すように、わたしは濡れた土を掌で平らにならした。家を守らなければならない。その思いだけが、今のわたしをかろうじて立たせていた。けれど、消えてしまった革靴の持ち主である夫の気配が、食卓の席からわずかに薄れたように感じたのは、気のせいだけだったのだろうか。
朝の光はあまりに明るく、それがかえって家の中にできる影の濃さを浮き彫りにしていた。わたしは指先をなぞる。昨日の朝にはあったものが、今朝にはない。その事実が、家の輪郭を少しずつ、確かに削り取っていくのを感じていた。
もし、明日も靴が減っていたら。 その時、わたしはこの家族を、誰を守ればいいのだろう。問いかけに答える者はなく、ただ蝉時雨だけが、湿った夏の空気を激しく揺らしていた。
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