2話 箱の前を通るたび

朝の青葉丘高校は、夏休みが終わったばかりのわりに空気が乾いていた。窓を開けても、湿った風は教室の奥まで届かず、黒板のチョークの粉っぽさと、体操服の洗剤の匂いだけが残る。職員室前の提出箱は、朝からずっとそこにあるだけで、置かれた場所の空気を少し硬くしていた。

俺、佐伯悠人は進路調査票を鞄の内ポケットに入れたまま、何度もその前を通った。青いプラスチックの箱の口は黒く開いていて、そこへ紙が吸い込まれるところだけを、視線が先回りしてしまう。自分でも可笑しいくらい、目だけが逃げる。折り目のついた紙は鞄の中で薄く曲がり、その角が俺の太腿に触れるたびに、指先がつい何度もそれを確かめた。まるで、そこに「俺という人間の期限」が詰まっているかのように、紙の手触りだけが妙に生々しく感じられる。

担任の林彩子は朝の点呼が終わったあと、黒板消しを端に置きながら、俺を一度だけ見た。いつものように声を荒げることはない。ただ、全員の名を読み終えたあとに、少し間を置いてから言った。

「佐伯、何を避けているのか、先に考えておきなさい。期限までに紙を出せばいいというものではないでしょう。白紙を出すことも、提出箱に何も入れないことも、すべてはあなたの選択です。けれど、その沈黙が何を守ろうとしているのか、自分自身で理解しておかないと、結局最後には自分が一番苦しむことになりますよ」

その言葉は、提出しろという事務的な命令より、むしろもっと厄介だった。考えろと言われると、俺は逃げる場所を失う。未来の話だと思っていたものが、実は目の前の自分の癖でできていると、うすうす見抜かれた気がした。俺は何も言い返せず、ただシャーペンの芯先を机の木目に押し当てた。パキ、と乾いた音を立てて芯が折れる。

昼休み、教室の壁に貼られた文化祭準備の掲示が、ひらひらと少しだけ剥がれていた。係分担表の端を押さえる画鋲が、ひとつ足りない。誰かが走った拍子に外れたのだろう。そんな小さな乱れが、なぜだか今日の俺にはやけに目についた。全部が整っていないと、何かが始められない気がしてしまう。だが自分は、整うのを待ってばかりいる。

「悠人、また考え事?」

ひよりがいつの間にか俺の机の前に立っていた。彼女は部活帰りのような顔つきで、部活用のヘアゴムを指先にかけ、髪をきっちりと結び直している。その所作の一つひとつに、彼女が自分を律しようとする意志がにじんでいるように見えた。

「考え事っていうか。……ただ、この紙をどうするかなって」

「まだ迷ってるの? 林先生に呼ばれてたじゃない。何か言われたの?」

「別に。何を避けているか考えろ、って言われただけだ」

「避けていること、か……」

ひよりが視線をふらりと逸らした。彼女の首筋に、少しだけ汗が光っている。夏の終わりの湿った風が教室を吹き抜け、カーテンを大きく揺らした。ひよりが袖口を指でいじる。彼女もまた、この進路調査票という重荷を共有しているかのような、それでいて自分だけはどこか違う場所を見つめているような、そんな危うい距離感があった。

「ねえ、もしさ。もし二人が違う場所に行くことになったら、その時は本当に離れちゃうのかな」

ひよりが不意に、冗談めかした口調で言った。だが、その言葉には隠しきれない緊張が含まれている。俺は答えに窮した。その問いに答えることは、未来の可能性を一つずつ殺していく作業のように思えたからだ。

「さあな。そんなの、行ってみないと分からないだろ」

俺がそうやって曖昧に笑うと、ひよりは少しだけ表情を歪め、すぐにいつものような屈託のない笑みを浮かべた。その笑みの作り方が、あまりにも手慣れていて、俺は胸の奥がまたざわつくのを感じる。

放課後、俺は机の中の消しゴムのカスを指で集め、何もないままに、もう一度だけ進路調査票を折り直した。折り目は増えるのに、答えは増えない。紙の角は指に食い込むほど固くなっていて、そこだけが妙に現実的だった。

教室の向こう側では、相原凛が志望校の資料を鞄にしまい、一言も発せずに静かに立ち上がった。彼の背中には、一切の迷いがないように見える。彼が歩く先には、すでに確かな未来の輪郭が出来上がっていて、俺たちがまだ見ぬ霧の向こう側へ、迷わず飛び込んでいく準備を終えている。

俺とひよりの帰り道。赤錆びた歩道橋に差し掛かると、笹川の川面が鈍い銀色に光っていた。ひよりは何も言わずに歩道橋を上り始めた。錆びた手すりに触れると、冷たい感触が掌に伝わってくる。この歩道橋を渡りきれば、現実という名の明日がまた近づく。俺は、空欄の紙を抱えたまま、この錆びた鉄の骨組みの上で、どこへも向かえずに立ち尽くしている。

「本当はさ、悠人も分かってるんでしょ」

ひよりが背中を向けたまま呟いた。川風が彼女の髪を揺らし、制服の襟をはためかせている。

「何をだよ」

「本当は、進路なんかどうでもいいって。ただ、今の時間がずっと続けばいいのにって思ってること。……私だけがそう思ってるんじゃないって、信じてもいいのかな」

その言葉は、夕暮れの冷房臭と混ざり合い、俺の胸の中に鋭く刺さった。嘘をつけば場は保てる。けれど、彼女が初めて差し出してきたその言葉を、俺はもう曖昧な笑みでやり過ごすことができなかった。歩道橋の下で、川の水音だけが、二人の言葉の遅れを吸い込んでいた。

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