3話 朝の歩道橋、まだ熱を持たないうちに

朝の川沿いは、夜の湿りをまだ少し残していた。堤防道の草むらからは、刈り残された茎の青い匂いが立ちのぼり、遠くの道路を走る車の音が薄い膜のように街に伸びている。佐伯悠人は、いつもなら通り抜けるだけの赤錆びた歩道橋の上で足を止め、ひよりを待った。手すりは冷たく、その感触が手のひらから伝わり、掌の汗だけがやけに気になった。彼はいつもの癖で、鞄の口を一度だけ確かめ、そして閉じ直した。そこには、提出を待つ真っ白な進路調査票が眠っている。

ひよりは少し遅れて現れた。部活帰りでもないのに、髪はきっちりと結び直されていて、その几帳面な所作だけが彼女の緊張を先に告げていた。鞄の端を握る指先が白い。悠人は、昨夜のメッセージのことをすぐには持ち出せなかった。彼女の顔を見れば、言葉にする前に喉が狭くなる。ふたりのあいだを、川の流れだけが先に渡っていく。静かな朝の空気が、沈黙をよりいっそう濃くしていた。

「……おはよう」

「おはよう、悠人」

ひよりが最初に口にしたのは、いつも通りの、どこにでもある朝の挨拶だった。コンビニの新しいゼリー飲料のこと。文化祭準備の紙が曲がっていたこと。彼女は努めて日常の話題を並べた。けれど、どの言葉も橋の半ばで止まり、重力に負けて川面へと落ちていくように消えた。悠人は、彼女が無理に明るくしているのを見ていた。見ていたのに、昨夜までと同じように、踏み込むより先に笑って流そうとする自分も、同時に見えてしまう。そのぎこちない共犯関係こそが、自分たちを縛りつけていた鎖だと気づく。

やがてひよりが手すりに触れ、少しだけ息を吸い込んだ。悠人はその息の浅さで、もう戻れないところまで来ているのを知った。彼が先に言ったのは、志望先の大学名でもなければ、模試の判定でもなかった。

「離れたくないよ。……進路が別になっても、関係が壊れるんじゃないかって、それが一番怖いんだ」

悠人の言葉は、一度空気に溶けて、それからひよりの瞳にまっすぐ届いた。どこへ行くかより、誰と向き合ったまま別れるかもしれないことのほうが、ずっと怖かった。ひよりは、その告白を遮らなかった。彼女の瞳が揺れ、ようやく仮面が剥がれ落ちる。

「……私も。ずっと、言えなかった。離れるのが嫌だって認めたら、もう大人にならなきゃいけない気がして。でも、そうやって我慢するのが一番苦しかった」

ひよりの声は、いつもよりずっと低く、そして温かかった。橋の下を、始発のバスが低い音をたてて通り過ぎる。振動が錆びた鉄板を伝い、ふたりの足元をかすかに震わせた。悠人はひよりの手の甲に、自分の指を重ねた。冷たかった手すりとは違い、彼女の肌は微かな熱を持っていた。

「俺、決めるよ。なんとなくじゃなくて、ちゃんと自分の言葉で。この先、何がどう変わるかなんて分からないけれど、少なくとも、これ以上先延ばしにして自分を誤魔化すのはやめる。……ひよりと、こういう話をちゃんとできる関係であり続けたいから」

「うん。……私も。私、自分の進路ちゃんと決める。逃げないよ、もう」

川面が朝の光を受けて鈍く割れ、キラキラと砕け散った。歩道橋の錆は、もはや古びた遺物ではなく、ふたりが共有してきた時間の重さのように見えた。悠人は鞄の中の進路調査票を思い浮かべた。そこにはもう、空白の恐怖ではなく、自分たちがこれから歩む道のりに対する、不格好だが確かな希望が書き込まれるはずだ。

ひよりが髪を整えていたヘアゴムを外し、一度ほどいてから、もう一度しっかりと結び直した。その一連の動作には、もう迷いがなかった。それは少女の終わりであり、未来に向かう最初の準備だった。悠人は彼女の隣に並び、橋を下りていく。夏が終わる匂いがした。それは決して終わりではなく、ふたりの関係が、単なる「いつも通り」から「選ぶ」という新しい形へ変わるための、最初の一歩だった。橋の向こう側には、まだ書き込まれていない未来と、そして今日という新しい一日が、静かに広がっていた。

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