1話 提出箱の前で

職員室の前に置かれた、青いプラスチック製の提出箱。その口はまるで、飲み込まれたら二度と戻れない場所のように、校内の薄暗い廊下で異様なほど黒く開いていた。夏休み明けの青葉丘高校は、まだどこか生徒たちの熱気を引きずっており、窓の外からはグラウンドの土埃と、部活動の掛け声が風に乗って運ばれてくる。

俺、佐伯悠人はその前を通るたびに、視線だけを不自然に右へ逸らした。まるでそこに地雷が埋まっているかのように、箱の存在を視界の端で認識しつつ、意識的に無視を決め込む。 廊下を歩く生徒たちの足音は、提出箱の前だけ少しだけ早くなるような気がした。俺も同じだ。誰かに引き止められるわけではないのに、後ろめたさが足の裏から吸い上げられていく。

教室に入ると、担任の林彩子が教卓の横で書類の束を整理していた。彼女は俺の顔を見ると、特に何を言うでもなく視線を外し、教卓の上のカレンダーを指先でなぞった。

「佐伯、明日までですよ。出し忘れても、代わりはいないから」

林先生のその言葉は、突き放しているようでもあり、あるいは「逃げ場所はない」という静かな通告のようでもあった。教室の空気が、湿り気を帯びた秋の気配と、乾いた緊張感で張り詰める。

俺は自席へ戻り、鞄の中から進路調査票を取り出した。それは夏休みの間に何度も折りたたまれては広げられ、今や紙の端は毛羽立ち、変な癖がついてしまっていた。 志望校の欄。そこにペン先を落としては、また浮かせる。もう何度目になるだろう。最初に書こうとした「なんとなく」の大学名は、もうゴム印のように消しゴムでこすり落とされ、跡だけが白く残っている。

「どうしたの、悠人。まだそこなの?」

隣の席から不意に声をかけられ、俺はびくりと肩を震わせた。宮坂ひよりだ。彼女は部活帰りのような顔つきで、結び直したばかりの髪を気にしながら俺の机を覗き込んでいた。

「いや、ちょっと……迷ってるっていうか。ひよりは、書けたのかよ?」

俺がそう聞き返すと、ひよりは一瞬だけ表情を曇らせ、すぐにいつものような屈託のない笑みを浮かべた。その笑みの作り方が、あまりにも手慣れていて、俺は胸の奥が少しだけざわつくのを感じる。

「まあね。とりあえず、書いたよ。悠人も、あんまり悩んでると期限切れちゃうよ。林先生、今日はやけに機嫌悪そうだし」

「……ああ。そうだよな」

俺は返事をしながら、再び自分の机に目を落とした。ひよりが言った「書いた」という言葉が、妙に遠くへ聞こえた。俺たちが中三の時、同じように進路の話から逃げて、なんとなく今のこの高校を選んだあの日々が、今のこの瞬間に重なる。

昼休み、校舎には不思議な静寂が訪れる。多くの生徒がグラウンドへ駆けていく時間、俺はあえて提出箱のある職員室の方角へ向かった。提出する気などさらさらない。ただ、あの箱が自分にどんな圧をかけてくるのかを、わざと確かめたかったのだ。

足音が廊下に響く。職員室の前を通る生徒たちは皆、箱を避け、まるでそこだけが真空状態であるかのように通り過ぎていく。俺が箱の横をすり抜けようとした、その時だった。

「佐伯」

背後から林先生の声がした。俺は立ち止まり、恐る恐る振り返る。彼女は書類の束を抱えたまま、こちらを見ていた。

「まだ白いままでも、見ていないわけではないでしょう」

それは叱責ではなかった。彼女の目は、俺の逃げ腰を責めるのではなく、俺の内心にある「書けない理由」という形のない塊を、じっと見つめていた。叱りつけるならまだ楽だった。命令なら従うだけでいい。だが、彼女の言葉は、俺が守りたかった「何も決めていないという言い訳」を、紙の外側へと引きずり出した。

放課後、下校の準備をする俺は、鞄の中でボールペンの先が何かに引っかかるのを感じた。芯はまだ十分にある。書くための道具は、いつでもここにある。なのに、書くべき対象が、自分の中のどこにも見当たらない。

俺はもう一度、職員室の前を通ることにした。提出箱の口は、朝よりも一層黒く、深みを増しているように見えた。明日という期限が、目に見えない秒針になって刻々と近づいてくる音が、廊下の静寂の中で聞こえた気がした。自分の輪郭をはっきりさせることが、なぜこれほどまでに恐ろしいのか。俺はその答えを飲み込んだまま、誰もいない廊下を足早に去った。

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提出箱の前で - 白紙のままで話そう - 誰でも作家life