第2話 現実を侵すデジャヴ
# 第2幕 侵食 ## エピソード1 現実を侵すデジャヴ
「寂しいの、電話して」 あの忌まわしい落書きに電話をかけてから、俺の日常は砂時計の砂が落ちるように、ゆっくりと、しかし確実に崩れていった。最初は気のせいだと思っていた。街のざわめきに紛れて聞こえる囁き声。誰かに見られているような、粘つく視線。だが、それはやがて、無視できないほど明確な形で俺の世界を侵食し始めた。
通学路、いつもの交差点の巨大なディスプレイ。普段ならアイドルの新曲PVか、企業のつまらない広告が流れているだけだ。だがその日、横断歩道で信号を待つ俺の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。流れていた飲料水のCMが、一瞬、砂嵐のようなノイズに掻き消え、次の瞬間、黒い背景に白い明朝体の文字が浮かび上がったのだ。
『今日のコーヒーは甘かった?』
心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。確かに今朝、アパートでユウキが淹れてくれたインスタントコーヒーに、俺は砂糖をスプーン三杯も入れた。二日酔いの頭には、そのくらい甘ったるい方がちょうど良かったからだ。周囲の人間は誰もディスプレイの変化に気づいていない。誰もがスマホの画面に目を落とし、あるいはイヤホンで耳を塞ぎ、自分の世界に閉じこもっている。この異常に気づいているのは、この雑踏の中で俺一人だけだった。
「なあ、最近さ、街中の広告とかが俺に話しかけてくる気がするんだよ」 大学の学食で、俺は親友のユウキに切り出した。彼は山盛りの唐揚げ定食を頬張りながら、怪訝な顔で俺を見る。 「はあ? タケル、お前さては課題のやりすぎで頭おかしくなったか? それとも例の講義、まだ引きずってんのかよ」 「いや、マジなんだって! 今朝も交差点のデカいスクリーンに『今日のコーヒーは甘かった?』って出たんだ。お前が淹れてくれたやつ、甘くしただろ?」 ユウキは箸を止め、やれやれと肩をすくめた。 「お前なあ、そりゃ偶然だろ。最近の広告はパーソナライズされてんだよ。お前がスマホで『甘いコーヒー』とか検索した履歴でもあるんじゃねえの? 大体な、お前のことを監視して、わざわざ交差点のディスプレイにメッセージ出すなんて、どんな暇人がやんだよ。メリットゼロだろ。考えすぎだって。疲れてんなら、今夜あたりパーッと飲み行くか?」 ユウキの言葉はどこまでも正論で、現実的だった。だが、彼の合理性は、今の俺が感じている皮膚感覚の恐怖を少しも和らげてはくれない。むしろ、誰にも理解されないという事実が、俺を深い孤独の沼へと引きずり込んでいく。
その夜、バイト先のカフェで、俺はさらに追い詰められた。SNSのタイムラインを何気なくスクロールしていると、見知らぬアカウントの投稿が目に留まった。アイコンは真っ黒で、プロフィールも空欄。ただ一言、こう呟かれている。 『あの店の新作パスタ、ちょっと試してみたいけど、一人じゃなあ』 血の気が引く。それはまさに昨日、俺がこのカフェの前を通りかかった時に考えたことだった。ショーウィンドウのサンプルを眺めながら、隣のテーブルで楽しそうにパスタを分け合うカップルを見て、漠然と感じた寂しさ。その思考が、なぜ。
「タケルくん、大丈夫? さっきから顔色悪いよ」 声をかけてきたのは、同僚のサオリさんだった。ふわりと香るシャンプーの匂いに、少しだけ現実感が戻る。彼女の、心配そうに俺を覗き込む瞳。その艶やかな唇が、何かを言いたげに微かに動く。その視線に、俺は淡い憧れと同時に、見透かされているような居心地の悪さを感じた。彼女の瞳の奥に、俺の知らない何かが潜んでいるような気がしてならなかった。 「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと考え事してて」 俺はぎこちなく笑って見せたが、彼女の表情から疑念は消えていない。彼女は小さくため息をつくと、「無理しないでね」と言い残し、カウンターの中に戻っていった。彼女の背中を見送りながら、俺は確信する。この都市全体が、巨大な一つの目と耳になって、俺の一挙手一投足を監視しているのだと。そしてその中心に、あの落書きの電話番号があるのだと。もはや逃げ場はない。俺の世界は、静かに、だが確実に、見えない何かに乗っ取られつつあった。
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