1話 落書きの誘いと都市の囁き

# 第1幕 接触 ## エピソード1 落書きの誘いと都市の囁き

あの夏の始まり、電車のドアを出ると、蝉の声がアスファルトの熱気で歪み、耳朶にねっとりと貼り付いてくるような猛烈な暑さ。大学までの20分間の坂道にうんざりもするけれど、二限、一般教養の哲学史講義を考えてもうんざりする。教授は教科書を棒読みするだけ。内容もチンプンカンプンだ。ギリギリで滑り込んで、出席カードをかっさらうか、お日様のせいにしてサボってしまおうか。 そんな二択に頭を悩ませて、プラットフォームの階段を降りていると、突如として内側から突き上げるような衝撃に襲われた。腹が、痛い。それも、尋常じゃないレベル。

「クソッ……!」

冷や汗が額を伝う。さっき飲んだ、駅前の自販機で買った激安缶コーヒーが原因か。いや、昨日の夜に食った賞味期限切れのコンビニ弁当か。原因究明などしている暇はない。人波をかき分け、最寄りのトイレを目指すは一つ、便所の個室、出来たら洋式のやつ。

だが、どこぞの神は俺を見捨てたらしい。トイレの個室は全部、使用中。後ろにはぞろぞろと番手が付いて来た。鏡に写った姿はまるで人気アイドルの握手会。並んでいる男たちには、連帯感が漂う。違うのは皆一様に苦悶に満ちていることだけど。それに、そんな一体感は、文字通りクソの役にも立たない。便意と焦燥感が全身を駆け巡り、膀胱だか腸だかが独立した生き物のように暴れ出す。

何分経ったのだろうか。ここで、もし同時にいくつかの個室が空いたら、俺より後ろに、しかも後から!並んでいた奴らも救済される。猛烈に腹立たしかった。俺の苦しみが、他人の幸福に繋がるなんて許せない。

すると、そんな利己的な祈りが通じたのか、一番奥の個室の扉が、まるで俺だけを招き入れるようにゆっくりと開いた。飛び込むように中へ入り、乱暴に鍵をかける。背後で、他の扉もいくつか開く音がしたが、知ったことか。ボストンバッグをドアのフックに引っ掛け、ベルトを緩めながら便座に身を沈める。訪れた解放感に、俺は天を仰ぎ、小さく神に感謝した。

安堵のため息も束の間、視界の隅に、何かが引っかかった。目の前の、薄汚れたクリーム色の壁。そこに、黒いマジックペンで走り書きされた文字があった。

『寂しいの、電話して』

その下には、几帳面とは言えないが、判読可能な書体で電話番号が記されている。『03-XXXX-XXXX』。市外局番が、この落書きに妙な現実味を与えていた。

今どき珍しい。昭和の公衆電話じゃあるまいし。くだらない悪戯か、それとも何かの詐欺か。常識的に考えれば、それ以外の答えはない。バイト先のサオリさんみたいな、女が、こんな場所に自分の連絡先を残すわけがない。彼女の、コーヒーを淹れる時の真剣な横顔と、ふとした瞬間に見せる柔らかな笑顔は良い。

しかし、そんなことを考えていたら、第二陣が下の方に迫ってきた。目を閉じて、祈る。『今日からは、キチンと生まれ変わります。だから、どうか赦して…』 それが通じのか、しばしの間の後、痛みは昨夜の晩飯と一緒にすぅーっと排出された。

目を開けると、いつの間に取り出したのか、スマートフォンが両手で握られている。すると

この番号は、その「何か」への入り口かもしれない。

そんな考えが浮かんでくる。一時の気まぐれ。ほんの好奇心。後でユウキに話して笑い飛ばしてやればいい。まるで何かに憑かれたかのように、震える指で画面に番号を打ち込んでいく。発信ボタンを押す直前、一瞬だけ、その数字の羅列に見覚えがあるような、気がした。だが、その感覚もすぐに消え失せ、俺は緑色のアイコンをタップした。

耳に当てたスピーカーから、無機質なコール音が響く。三回、四回。どうせ誰も出ないだろう。そう思った瞬間、コール音が途切れ、ブツリ、と何かが繋がった。

「もしもし?」

俺の声は、誰にも届かない。代わりに、鼓膜を劈くような激しいノイズが流れ込んできた。ザー、という砂嵐のような音。そして、そのノイズの隙間から、微かに、本当に微かに、何者かの囁き声が聞こえた気がした。空気を擦るような、意味をなさない音の断片。それは人の声なのか、それともただの音の偶然か。

背筋を冷たいものが駆け上る。俺は慌てて通話を切り、スマートフォンを握りしめた。

静まり返った個室と、隣の個室から聞こえてくる水洗の音が、ここが現実であることを告げている。だが、俺の耳の奥には、あの不気味なノイズと囁きが、まだこびりついていた。

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