2話 加速する理想、届かぬ声

高坂葵の指先が、ノートPCのトラックパッドの上で神経質に円を描いていた。目の前のディスプレイには、急成長IT企業「ネクステラ」のロゴと、「プロジェクト・ヘルメス」の文字が明滅している。それは千載一遇のチャンスを意味する輝かしい記号のはずだった。だが、彼女の思考の片隅には、昨日の佐伯航の言葉が、消えないインクの染みのようにこびりついていた。

『その話、少し引いて見たほうがいい』

無気力な眼差し。いつもの皮肉めいた口調とは違う、平坦で温度のない響き。まるで忠告というより、遠い昔に書かれた予言を読み上げるかのような声だった。

(引いて見る、ですって?)

葵は奥歯を噛みしめた。馬鹿らしい。それは停滞と現状維持を正当化するための、怠惰な人間の常套句だ。オルタナティヴ・ソリューションズという、結果が全ての世界で、一歩引くことは一歩遅れることを意味する。そして遅れは、敗北とほぼ同義だった。

彼女の信条は「努力は必ず報われる」。それは新人研修でトップ評価を得て以来、揺らぐことのない行動原理だった。一度、顧客対応のミスで上司に「準備と下調べを怠るな」と骨身に染みるほど指導されてからは、彼女の「努力」は他人の倍の密度と熱量を帯びるようになった。不合理や理不尽には正面から立ち向かう。疑念があれば、納得できるまで食い下がる。そして、成果は自分の手で掴み取る。佐伯の態度は、その全てを否定するかのようだった。

「違う」と、葵は声に出さずに呟いた。「私とあの人は、見ているものが違うだけ」。

彼女は立ち上がると、一分の隙もなく整頓されたデスクの端に置かれたメモアプリに、新たなタスクを打ち込んだ。『高城部長 – ヘルメス担当の件でアポイント』。そして、決意を固めた顔で部長席へと続く廊下をまっすぐに見据えた。彼女の歩みは、一切の迷いを振り払うかのように力強かった。

高城部長は、厳しい表情を崩さぬまま、葵が提出した企画概要書に目を通していた。重厚なマホガニーのデスクと、背後の窓から見える都市のパノラマが、この部屋の主の権威を物語っている。葵は背筋を伸ばし、沈黙が支配する空間で、ただ静かに部長の次の言葉を待っていた。やがて、高城は書類から顔を上げた。

「……高坂。君の熱意は買う。この資料を見ても、君がどれだけこの案件に時間と情熱を注いでいるかはよく分かる。だがな、このプロジェクトは佐伯を指導役につけて進めるはずだった。その彼が、なぜか煮え切らない態度だという報告も受けている。なぜ君が、彼を差し置いてまで主担当に名乗り出る?」

問いは、鋭く葵の核心を突いてきた。ここで感情的になってはならない。彼女は一度、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「お言葉ですが、部長。私は佐伯先輩を差し置こうなどとは微塵も考えておりません。ただ、この『プロジェクト・ヘルメス』が持つ真の価値と、それを成功させるための最短かつ最善の道筋が、私には明確に見えているのです。これは単なる風評対策案件ではありません。これは、我々オルタナティヴ・ソリューションズが、ネクステラという次世代のITジャイアントと、揺るぎないパートナーシップを築くための、まさに最初の礎石となる戦略的プロジェクトです。そして、この重要な任務を、私、高坂葵が成功に導ける理由は三つあります」

葵の声は、理知的でありながら、抑えきれない熱を帯びていた。彼女は指を一本ずつ折りながら、淀みなく言葉を紡いでいく。

「第一に、私の情報分析能力です。私はネクステラから提供された初期データを既に解析し、彼らが潜在的に抱えるリスク構造と、今回の風評被害の核心的な拡散パターンを特定しました。これは、過去の類似案件のデータと照合した上で導き出した、極めて精度の高い仮説です。第二に、私の行動力。このプロジェクトにはスピードが不可欠です。日々変化するネット上の情報戦において、後手に回ることは致命傷になりかねません。私は、週末も返上し、このプロジェクトに全ての時間を投下する覚悟があります。そして第三に……」

葵は一瞬言葉を切り、高城の目をまっすぐに見つめた。

「第三に、私の『当事者意識』です。佐伯先輩は素晴らしい方ですが、どこかこの案件を客観視しすぎておられるように感じます。しかし、クライアントが求めているのは、評論家ではありません。共に痛みを分かち合い、泥にまみれてでも勝利を掴み取ろうとするパートナーです。私には、その覚悟があります。ネクステラの成功は、オルタナティヴ・ソリューションズの成功であり、そして、私の成功でもある。この三位一体の信念こそが、この難局を乗り越える最大の推進力になると、私は確信しております。どうか、私にこのプロジェクトを率いさせてください」

長い独白が終わると、部屋には再び静寂が戻った。高城は組んでいた腕をほどき、指先でデスクを軽く叩いた。彼の目には、葵の能力を査定する冷徹さと、その奥にある純粋なまでの野心を見抜くような、複雑な光が宿っていた。

「……わかった。そこまで言うのなら、君に任せよう。正式に『プロジェクト・ヘルメス』のチームリーダーに任命する。だが、一つだけ言っておく。その熱意、燃え尽きないようにしろよ。若さという燃料は、思ったよりも早く尽きるからな」

その言葉は警告のようにも聞こえたが、今の葵の耳には、激励の言葉としてしか届かなかった。

高揚感を胸に部長室を出た葵の足取りは、羽が生えたように軽かった。廊下を曲がったところで、同期の新田圭介が涼やかな顔で立っていた。完璧に着こなされた高級スーツに、手には最新のスマートウォッチが光っている。彼は葵に気づくと、人当たりの良い笑みを浮かべた。

「すごいな、葵!とうとうヘルメスを獲ったんだって?もう噂になってるぞ。さすがは俺たちのエースだ。頑張れよ、同期として本当に誇らしいよ」

「ありがとう、新田。頑張るわ」

葵は素直に礼を言った。彼の要領の良さや、上司への立ち回りの上手さには時折苛立ちを覚えることもあったが、彼の優秀さは認めている。その彼からの激励は、葵の自信をさらに強固なものにした。

「何か困ったことがあったら、いつでも声をかけてくれよ。俺で力になれることなら何でもするからさ」

新田はそう言って葵の肩を軽く叩くと、颯爽と歩き去っていった。その足が、自分たちのフロアとは逆の、役員専用エレベーターホールへと向かっていることなど、今の葵は気にも留めなかった。彼女の頭の中は、これから始まる壮大なプロジェクトのことで満たされていたのだ。

週末。街の喧騒が嘘のような、静かな時間が流れるカフェの窓際。それが葵のお気に入りの場所だった。目の前には山と積まれたネクステラの資料、そしてノートPCの画面には、彼女自身が設計した複雑なデータ相関図が表示されている。注文したのは、いつものブラックコーヒー。甘いもので救われるのは一瞬だけ、という佐伯の皮肉な口癖を思い出し、彼女は小さく鼻を鳴らした。苦味こそが、思考をクリアにする。

(情報は力だ。そして、整理された情報こそが最強の武器になる)

大学時代のゼミで、誰もが匙を投げたイベントを成功に導いた時の記憶が蘇る。あの時もこうして、膨大な情報を整理し、問題の核心を突き止め、勝利への道筋を描き出した。その成功体験が、今の彼女の血肉となっている。

葵は鞄から、一本の万年筆を取り出した。父親が転勤する際に贈ってくれた、大切なものだ。少し重みのあるその感触が、思考を落ち着かせてくれる。彼女はキャップを外し、まっさらなノートの上にペン先を置いた。考え事をするときの癖で、軽くペンをクルクルと回す。そして、溢れ出す思考を、美しいインクの線へと変えていく。

『プロジェクト・ヘルメス』。ギリシャ神話の神々の使者、ヘルメス。商業や旅、そして策略の神。その名の響きに、葵は自分のキャリアが神の翼を得て、どこまでも高く飛翔していく未来を重ねていた。佐伯の顔がふと脳裏をよぎる。あの澱んだ瞳。だが、すぐに彼女はそれを打ち消した。

(あの人は過去に囚われているだけ。アキレス・フォールとかいう、古い失敗談に。でも、私は未来を見る)

充実感が全身を駆け巡る。自らの手で未来を切り拓いているという、絶対的な確信。その理想の光はあまりに強く、すぐ足元に忍び寄る不気味な影の存在に、彼女はまだ気づいていなかった。万年筆のペン先が、ノートの上に力強く置かれ、次なる戦略を記すための一画目を、迷いなく刻み始めた。

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