1話 千載一遇のヘルメメス

夜明け前の静寂を切り裂いて、アスファルトを叩くリズミカルなシューズの音だけが響く。高坂葵は、吐く息の白さも気に留めず、ひたすらに足を前に運んでいた。イヤホンから流れる海外の経済ニュースが、まだ眠りから覚めきらない都市の風景に知的な輪郭を与える。彼女にとって早朝のランニングは、単なる健康維持ではない。思考を研ぎ澄まし、今日という一日を支配するための、不可欠な儀式だった。川面に映るビル群の灯りが、彼女の瞳の奥で野心の炎のように揺らめいている。

「努力は、必ず報われる」

新人研修でトップの成績を収めて以来、この言葉は葵の揺るぎない信念となった。名門大学を卒業し、業界トップの呼び声高いリスクマネジメント・コンサルティングファーム「オルタナティヴ・ソリューションズ」に入社して四年。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社する。膨大なデータを分析し、完璧なロジックを構築し、クライアントを唸らせる。その一つ一つの積み重ねが、高坂葵という人間の価値を証明してきた。仕事の成功こそが、自己実現そのものだと、彼女は信じて疑わなかった。

シャワーを浴びて身支度を整える。クローゼットには、色別に分けられた寸分の隙もないビジネススーツが並ぶ。今日選んだのは、勝負の日に着ると決めている濃紺のセットアップ。完璧に整頓された部屋と同じく、彼女の思考もまた、常にクリアでなければならない。

午前七時半。ガラス張りの高層ビルに吸い込まれるように入ると、まだ人のまばらなオフィスフロアが広がっていた。自分のデスクは、彼女の頭の中を映すかのように、常に完璧に整理整頓されている。モニターの横には、転勤する父が「初心を忘れるな」と贈ってくれた万年筆。それを指先で軽く撫でてから、PCの電源を入れた。タスク管理アプリに並ぶ今日の予定を確認し、淹れたてのブラックコーヒーを一口含む。甘いものは苦手だ。一瞬の安らぎよりも、覚醒をもたらす苦味の方が、今の自分にはしっくりくる。

午前中のクライアントミーティングは、葵の独壇場だった。SNS上で拡散され始めたクライアント企業へのネガティブな風評。その背後にある情報発信源を特定し、拡散のメカニズムを緻密なデータ分析によって解き明かしてみせた。

「……以上の分析から、今回の風評は組織的な攻撃ではなく、特定のインフルエンサーによる個人的な見解が、製品への不満を持つ一部のユーザー層と偶発的に結びつき、増幅されたものと結論付けられます。したがって、我々が取るべき対策は、全面的な反論ではなく、インフルエンサー個人との対話を通じた誤解の解消、並びにユーザーへの真摯な情報提供です」

澱みなく語る葵の言葉に、先ほどまで強張った表情をしていたクライアントの役員たちが、安堵のため息を漏らす。葵のロジックには、反論の余地も、感情論が入り込む隙間もない。事実とデータだけが雄弁に語る。一度だけ、新人時代に顧客対応で大きなミスを犯し、当時の上司から「準備と下調べを怠るな。君のその根拠のない自信が、会社を危機に陥れるんだ」と、一週間、つきっきりで徹底的に指導されて以来、彼女の仕事ぶりは完璧主義の度合いを増した。あの屈辱が、今の自分を形作っている。

ミーティングが成功裏に終わり、自席に戻ると、上司から労いの言葉と共に、評価シートに高いポイントが付与された通知が届いていた。満たされていく達成感。これがあるから、この仕事はやめられない。

昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、軽薄とも言える明るい声が聞こえてきた。

「部長、昨日の会食、最高でしたね!あの店のワイン、さすが部長セレクトです。今度、僕も使わせてもらいますよ」

同期の新田圭介だった。彼は、寸分の狂いもなく着こなした高級スーツに、最新モデルのスマートウォッチをちらつかせながら、営業部長に媚びを売るように笑いかけている。新田も葵と同じく優秀だが、その力の使い所がまったく違った。葵が実直な努力と成果で評価を積み上げるのに対し、新田は社内政治や人脈作りといった「立ち回り」で自分のポジションを築いていく。

「よぉ、高坂。また難しい顔してんな。ミーティング、大成功だったんだって? さすがウチのエースは違うね」

新田が、人を食ったような笑みで葵に近づいてくる。

「ありがとう。やるべきことをやっただけよ」

葵は事務的に答え、カップに視線を落とした。彼の、全てを打算で値踏みするような目が苦手だった。

「そう、そうやって肩肘張ってばっかりいるから、お前は損するんだよ。仕事ってのはさ、半分は実力、残りの半分は愛嬌とコネなんだぜ。もっとうまくやれば、今の倍は楽に評価されるのにな。例えばさ……」

「結構よ、新田君。私は、そういうやり方は好きじゃない。自分の仕事は、自分の力で評価されたいだけだから。口先や惰性で評価されるくらいなら、今のままでいい」

きっぱりと言い放つと、新田は一瞬だけ、その柔和な仮面の下にある冷たい表情を覗かせた。だが、すぐにいつもの軽薄な笑みに戻る。

「……そっか。まぁ、それがお前の『正しさ』なんだもんな。悪い、余計なお世話だった。でもな、葵。その『正しさ』ってやつが、いつか自分の首を絞めることにならなきゃいいけどな。この会社は、お前が思ってるほど綺麗事だけじゃ回ってないんだぜ」

そう言い残し、新田は別の部署の女性社員に声をかけながら去っていった。その背中を見送りながら、葵は胸の中に渦巻く苛立ちを、苦いコーヒーと共に飲み下した。綺麗事? 違う。これはプロフェッショナルとしての矜持だ。成果は、自分で勝ち取るもの。誰かの機嫌を取ったり、ましてや媚びを売ったりして手に入れるものではない。

自席に戻ると、フロアが先ほどとは違う種類の熱気に包まれていることに気づいた。数人の先輩社員が、ひそひそと何かを話している。葵の鋭い聴覚が、断片的なキーワードを拾い上げた。

「――ネクステラ社から、直々の指名らしい」 「とんでもない規模の案件だぞ。成功すれば、今期のボーナスは跳ね上がるな」 「だが、火中の栗を拾うようなもんだって噂も……」 「コードネームは、『プロジェクト・ヘルメス』」

――プロジェクト・ヘルメス。

その言葉が、葵の鼓膜に突き刺さった。急成長中のIT企業、ネクステラ。今最も勢いのある企業の一つだ。そこからの大規模案件。胸が、期待に大きく脈打つのを感じた。これだ。私が求めていたのは、これほどの大きな仕事だ。キャリアを、人生を、次のステージへと引き上げてくれる、千載一遇のチャンス。

葵の視線は、フロアの奥、指導役である佐伯航のデスクへと吸い寄せられた。彼はいつも通り、やる気があるのかないのか分からない様子でモニターを眺め、時折ため息まじりに目をこすっている。かつてはエースだったと聞くが、今の彼からはその面影は微塵も感じられない。

(あの人に相談しても、どうせ「まあ、頑張れば?」くらいの返事しか返ってこないだろう)

葵は心の中で呟き、視線を自分のモニターに戻した。新田の言葉が、不意に脳裏をよぎる。『その正しさが、いつか自分の首を絞める』。くだらない。私の正しさは、私を裏切らない。この手で、必ずこのチャンスを掴み取ってみせる。

彼女はタスク管理アプリを開き、新しい項目を追加した。「プロジェクト・ヘルメスに関する情報収集」。その文字を打ち込む指先には、確かな力がこもっていた。まだ見ぬ巨大なプロジェクトの輪郭が、彼女の理想主義を加速させ、ミステリアスな光を放ちながら、すぐそこまで迫っていることに、葵はまだ気づいていなかった。

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千載一遇のヘルメメス - ブラックコーヒーの夜 - 誰でも作家life