第2話 未知の盤面、最初の情報収集
# 第1幕 異世界への駒落ち ## エピソード2 未知の盤面、最初の情報収集
夜の闇は、思考を蝕む毒のように濃密だった。木々の葉が風に擦れる音は、まるで正体不明の獣の息遣いのようにも聞こえ、時折遠くで響く鳴き声が、俺のちっぽけな存在を嘲笑っているかのようだった。それでも、俺、藤井桂馬は不思議と冷静だった。恐怖がなかったわけではない。むしろ、体の芯が凍るような、原始的な恐怖に支配されていた。だが、その恐怖すらも、頭の中ではどこか他人事のように、客観的に分析している自分がいたのだ。
将棋盤を前にした時と同じだ。対局が始まり、相手が予想外の奇襲を仕掛けてきた。盤面は一気に混沌とし、定跡は意味をなさない。そんな時、パニックに陥るのが三流だ。一流の棋士は、混沌とした盤面の中から、新たな理(ことわり)を見つけ出し、次の一手を構築する。今の俺も、それと同じだった。意識を失う直前の、大学のアナログゲーム部室の光景。後輩との対局。そして、目覚めたらこの見知らぬ森。これは、理不尽極まりない「待ったなし」の盤面変更だ。ならば、それに適応するしかない。
湿った腐葉土の上で仮眠とも呼べない浅い眠りを繰り返しながら、夜が明けるのを待った。空が白み始め、木々の隙間から幻想的な光の筋が差し込んできた時、俺はゆっくりと身を起こした。体は泥と朝露で汚れ、空腹が胃を締め付ける。喉の渇きが思考の邪魔をする。最悪のコンディションだ。
「さて、藤井桂馬。お前の初手はどうする? 持ち駒はゼロ。盤面の情報もほぼない。先手後手すら不明。だが、思考を放棄した時点で投了だ。まずは駒を動かす前に、盤面を隅々まで観察する。それが定跡の第一歩だろう」
俺は独りごち、立ち上がった。まずは、将棋における「序盤の駒組み」だ。玉を囲い、飛車角の利きを通し、金銀で守りを固める。この世界における俺の「玉」は、もちろん俺自身の生命。ならば、それを守るための「囲い」を構築する必要がある。具体的には、第一に安全な水の確保。第二に食料の確保。そして第三に、周囲の脅威からの安全確保。この三つが当面の課題だ。
俺はまず、鼻をひくつかせた。湿った土の匂い、植物の青臭い匂い、そして、かすかに混じる水の匂い。耳を澄ませば、遠くで水の流れる音がするような気もする。地形は緩やかな下り坂になっている。水は高いところから低いところへ流れる。基本的な物理法則がこの世界でも通用するなら、坂を下っていけば水源に行き着くはずだ。
歩き始めると、足元の植物が目に入った。見たこともない形状のものがほとんどだ。紫色の斑点を持つ巨大なシダ植物、螺旋状に葉を伸ばす蔓草、発光するキノコ。ファンタジーと言えばそれまでだが、俺にとっては未知の駒でしかない。毒があるのか、食用になるのか、薬になるのか。情報がなければ、それはただのリスク要因だ。
三十分ほど歩いただろうか。せせらぎの音が明確になり、視界が開けた先に小さな小川が流れているのを発見した。水は驚くほど澄んでいて、川底の小石が一つ一つ数えられるほどだ。俺は川岸に膝をつき、両手で水をすくって口に含んだ。ほんの少しだけ。腹を壊せば、それこそ「詰み」だ。しばらく様子を見て、体に異常がないことを確認してから、渇ききった喉を潤した。冷たい水が全身に染み渡り、疲弊した思考が少しだけクリアになるのを感じた。達成感。そうだ、これがこの世界で俺が指した、記念すべき最初の一手だ。
「よし、『銀』の確保は完了。次は『金』、食料だな」
川沿いを歩きながら、食べられそうなものを探す。テレビのサバイバル番組で得た知識が頭をよぎるが、目の前にあるのは見慣れない植物ばかり。そんな中、見覚えのある形の木の実を見つけた。日本の山野に自生する木苺によく似ている。だが、色が毒々しいほどの青色だ。
「これは……際どい手だな。リスクを取って攻めるか、それとも安全策を取って様子を見るか」
俺は木の実を一つ摘み、指で潰してみた。果汁は青いが、刺激臭はない。少しだけ舐めてみる。甘酸っぱい味が舌に広がった。毒の味はしない、と思う。だが、確証はない。将棋で言えば、相手の罠かもしれない危険な場所に、自ら駒を進めるようなものだ。しかし、空腹という名の「時間切れ」が迫っている。
俺は周囲を注意深く観察した。近くの木の上で、リスのような小動物が同じ青い実を盛んに食べている。動物が食べるからといって人間に安全とは限らないが、一つの有力な情報だ。
「彼を知り己を知れば百戦して危うからず、か。よし、この『歩』は突こう」
俺は覚悟を決め、青い木の実を数個、口に放り込んだ。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がり、空腹が少しだけ満たされる。幸福感というにはささやかすぎるが、生きていることを実感できる、確かな喜びだった。
腹ごしらえを終え、俺は再び周囲の観察を始めた。将棋の局面分析と同じだ。手持ちの駒(情報)が少ない中で、最大限の選択肢を洗い出す。川の流れ、地形の高低差、太陽の位置、風向き。そして、動物の痕跡。地面には、明らかに大型の獣のものと思われる足跡が残っていた。これは危険な「敵の駒」だ。この足跡の主と遭遇すれば、俺という脆弱な「玉」は一瞬で詰まされるだろう。足跡の向かう方向を避け、より安全なルートを探る。
そうやって情報を収集し、分析し、次の一手を考えているうちに、半日が過ぎた。疲労は蓄積していくが、思考を止めなかったおかげで、絶望に飲み込まれることはなかった。
そして、その時は訪れた。
小高い丘に登り、森の向こうを見渡した瞬間、俺は息を呑んだ。
遠くの空に、細く、しかし真っ直ぐに立ち上る一本の煙。
それは、焚火の煙か、かまどの煙か。いずれにせよ、そこに人の営みがあることを示す、何よりも雄弁な証拠だった。将棋の終盤、自玉に詰みが見えず、相手玉に必至をかけた瞬間のような、圧倒的な高揚感が全身を駆け巡った。
「見つけた……」
声が震えた。盤面全体を覆っていた霧が晴れ、明確な「攻め筋」が見えた瞬間だった。あそこに行けば、人がいる。言葉が通じるかは分からない。友好的かどうかも分からない。だが、この孤独な森を彷徨い続けるより、可能性はずっと高い。
俺は丘の上から、その煙が立ち上る方角を脳裏に焼き付けた。それは、この広大で未知な盤上における、俺の目指すべき座標だった。
「行くか」
自分に言い聞かせるように呟き、俺は丘を下り始めた。足取りはまだ覚束ない。腹はすぐにまた空になるだろう。この先、どんな危険が待ち受けているかも分からない。だが、俺の心は不思議なほど晴れやかだった。
大学のアナログゲーム部で、ただ盤上の戦略に心酔していただけの俺。それが今、現実の世界で、自らの生存を賭けて「将棋」を指している。未熟で、弱くて、何の力もない。それでも、この頭脳だけは、俺の最強の武器だ。
森を抜けた先にある新たな盤面で、俺はどんな定石を、どんな奇策を編み出すことになるのだろうか。不安と、それを上回る好奇心が、俺の足を前へと進ませていた。これは、俺の人生という名の、まだ誰も見たことのない棋譜の、始まりの一歩に過ぎないのだから。
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