1話 現代の終局、異世界の始まり

# 第1幕 異世界への駒落ち ## エピソード1 現代の終局、異世界の始まり

パチリ、と乾いた音が狭い部室に響く。俺、藤井桂馬が放った角行が、相手の陣地深くに成り込んだ音だ。

「……うっわ、えげつな。先輩、その角はどこから湧いて出たんですか。まるで盤の裏から指したみたいじゃないすか」 目の前で頭を抱えているのは、大学の後輩で、アナログゲーム部の次期部長の座を虎視眈々と狙う男、木村だ。彼の得意戦法である四間飛車を、俺の居飛車穴熊がガッチリと受け止め、カウンターの一撃が突き刺さった局面。盤面は、どう見ても俺の優勢。いや、勝勢と言っていい。

「木村、将棋は盤上だけで戦ってると思うなよ。相手の呼吸、視線の動き、駒を持つ指先の震え……その全てが盤面の一部だ。お前がさっき一瞬、俺の飛車先に気を取られた。その隙を俺は見逃さなかった。それだけのことだ」 飄々と嘯いてみせるが、俺の脳内はスーパーコンピューターもかくやという速度で回転している。大学のアナログゲーム部。そこが俺の主戦場だ。チェス、バックギャモン、世界中のボードゲームが棚に詰め込まれているが、俺が心酔しているのは、日本の将棋。八十一マスの宇宙に、無限の戦略が渦巻いている。

部室は、男たちの汗と、古い紙の匂い、そして言いようのない熱気で満ちていた。壁には世界各国のゲームのポスターが乱雑に貼られ、床には開封されたばかりの新作ボードゲームの箱が転がっている。他の部員たちは、隣でドイツ製の重量級ゲームに興じ、サイコロを振る音が時折、俺たちの静かな対局に割り込んでくる。この混沌とした空間が、俺は嫌いじゃなかった。様々なルールと戦略が交錯する、まさに知の戦場だ。

俺にとって、将棋は単なるゲームじゃない。それは人生の、いや、世界の縮図そのものだ。序盤は情報戦。駒組みという名の陣形構築。中盤は激しい駒のぶつかり合い。そして終盤、追い詰められた玉をいかにして詰ますか。そこには孫子の兵法も、マキャベリの君主論も、すべてが集約されている。人は言う。「愛されるより恐れられよ」と。だが盤上では、愛された駒(重要視された駒)も、恐れられた駒(強力な駒)も、等しく一つの駒に過ぎない。重要なのは、その駒をいつ、どこで、どう使うか。それだけだ。

「……参りました、じゃねえな。まだだ、まだ終わっちゃいねえ」 木村が唸りながら、必死で受けの手を探している。その粘り、嫌いじゃない。だが、無駄だ。俺の脳内では、すでに完璧な詰み筋が見えている。あと七手。寸分の狂いもなく、彼の玉将は俺の駒に囲まれて絶命する。それはまるで、美しい数式が解き明かされる瞬間のような、官能的ですらある快感だった。思考の深淵へと潜っていく。駒が、盤面が、俺の意識と溶け合っていくような感覚。世界のすべてが八十一マスの盤上に収斂し、俺自身が神の視点を得たかのような全能感が、全身を駆け巡る。これだ。この瞬間のために、俺は生きている。

「木村、お前の玉の逃げ道は、もうどこにもない」

完璧な詰み筋の最終手を、俺は指先に思い描いた。金色の駒が盤上で輝き、勝利のファンファーレを高らかに奏でる――その、はずだった。

完璧な「詰み」を宣言しようと口を開いた、その刹那。

世界が、消えた。

パチリ、という駒音ではない。キィン、という金属的な耳鳴りが鼓膜を突き破り、視界がテレビの砂嵐のように乱れ、次の瞬間には純白の光に塗りつぶされた。身体がぐにゃりと融解し、重力から解き放たれるような奇妙な浮遊感。部室の喧騒も、木村の驚愕の表情も、すべてが遠ざかっていく。

「……は? なんだ、これ。盤面外からの……王手、か?」

それが、俺が現代日本で発した最後の言葉だった。意識は、まるで水に滲むインクのように、白く、曖昧に、拡散していった。

次に俺の意識を覚醒させたのは、土の匂いと、湿った腐葉土の感触だった。 瞼が鉛のように重い。ゆっくりとこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた部室の天井ではなかった。どこまでも高く伸びる、巨大な木々。その隙間から射し込む木漏れ日が、まるで教会のステンドグラスのように地面に幻想的な模様を描いている。

「……なんだ、ここは」

掠れた声が、自分の喉から出たものだと認識するのに数秒かかった。慌てて体を起こす。着ているのは、大学に行くときと同じ、よれたTシャツとジーンズ。だが、それだけだ。いつも肩にかけているはずのリュックも、ポケットに入っているはずのスマホも、財布も、家の鍵も、何一つない。あるのは、この身一つ。

周囲を見渡す。そこは、鬱蒼と茂る森の中だった。見たこともないような色鮮やかな花が咲き、聞いたこともない鳥の声が空高く響いている。空気を吸い込むと、肺が澄み切った冷気で満たされ、むせ返るような緑の匂いが鼻腔をくすぐった。あまりにも、現実離れした光景。まるで、出来の良いファンタジー映画のセットに迷い込んだかのようだ。

俺は一体どうなったんだ? あの後、部室で倒れて、誰かが手の込んだドッキリでも仕掛けているのか? いや、それにしてはスケールが大きすぎる。この空気、この匂い、肌を撫でる風。五感が訴えかけてくる情報が、これが作り物ではないと告げていた。

将棋の対局中、詰みを見つけた瞬間に意識を失い、気づけば見知らぬ森の中。あまりにも突拍子もない状況に、普通ならパニックに陥るのかもしれない。だが、不思議と俺の心は凪いでいた。長年、将棋の盤面で鍛え抜かれた思考回路が、感情の暴走を抑え込み、冷静に現状分析を始めていた。

まず、現状把握。 【場所】不明。原生林と思われる。 【所持品】なし。 【身体状況】外傷なし。空腹感あり。 【脅威】不明。野生動物、あるいは……。

思考は自然と、将棋の局面分析と同じプロセスを辿る。手持ちの駒(情報)が極端に少ない。こういう時は、下手に動くべきではない。まずは自陣(現在地)を固め、情報を集めるのが定石だ。

俺は立ち上がり、服についた土を払った。絶望的な状況であることに変わりはない。だが、同時に、心のどこかで奇妙な高揚感が芽生えているのを自覚していた。

持ち物はすべて失った。だが、俺の頭の中にあるものだけは、誰にも奪えない。何千、何万と繰り返した対局の記憶。あらゆる定石、手筋、詰み筋。そして、俺の血肉となっている孫子の兵法と、マキャベリの戦略論。それこそが、俺が唯一持っている「駒」だった。

ここは、ルールも、常識も、敵も味方もわからない、まったく新しい盤面だ。

面白い。

ゾクゾクするような闘争心が、体の芯から湧き上がってくる。未知の盤面。これほどまでに心を掻き立てられる状況が、他にあるだろうか。

俺は不敵な笑みを浮かべ、森の奥深くを見つめた。

「さて、と……」

まずは水源の確保と、食料の探索。そして、人の営みの痕跡を探す。やるべきことは山積みだ。

「異世界さん、お手並み拝見といこうか。俺の、最初の『手番』だ」

かくして、戦略オタク藤井桂馬の、駒なき盤上での戦いが、静かに幕を開けた。

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現代の終局、異世界の始まり - 『異世界の将棋戦記:戦略オタク、駒なき盤で覇を唱える』 - 誰でも作家life