第11話 古ぼけた絵本の再会
午後の陽光が、喫茶「山猫亭」の窓から斜めに差し込み、空気中の細かな埃をきらきらと照らし出している。店内に流れる古いジャズのレコードが、祖父の遺したアンティークの置き時計の穏やかな秒針の音と溶け合い、時の流れを緩やかにしていた。山根琴子は、探偵事務所のささやかな机で、佐藤健太少年から預かった「迷い猫の首輪」のスケッチと調査メモを前に、深く息を吐いた。思考が行き詰まるたび、無意識に耳元の髪を指でくるくると巻く癖が、彼女の戸惑いを表していた。
その時、店の奥にある物置から、母の静子が出てきた。その手には、埃をかぶった一冊の古いスケッチブックが抱えられている。 「琴子、これ、あなたの大切なものだったでしょう?」 静子は、娘が淹れた自身のマグカップ、幼い琴子が描いた猫の絵が描かれたそれにそっと触れるように、スケッチブックを机に置いた。その声には、深い愛情と、何かを懐かしむような温かい響きがあった。 「これ…」 琴子は目を見開いた。表紙には、クレヨンで描かれた山猫の拙いイラスト。記憶の奥底にしまい込み、いつしか存在すら忘れかけていた、幼い日の宝物だった。指先でそっと表紙をなぞると、ざらりとした紙の感触が、まるで魔法のように閉ざされていた記憶の扉を軋ませる。
ページをめくる。一枚、また一枚と。色褪せた紙の上に、過去の自分が懸命に描いた世界が広がっていた。喫茶店の前の風景、日向ぼっこをする猫たち、そして、見知らぬ人々の姿。その中に、琴子の心臓を跳ねさせる絵がいくつもあった。 店の前で泣いていた自分に、失くした赤いおもちゃを拾ってくれた見知らぬ少年のぼんやりとした後ろ姿。 小学校の登下校中、いつも同じ場所ですれ違った、大きなリボンをつけた少女の真剣な横顔。 そして、最後の方のページに描かれていた一枚の絵に、琴子は息を呑んだ。そこに描かれていたのは、一匹の猫。そしてその首には、健太が探している迷い猫「ミミ」が着けていたという、特徴的な模様の首輪がはっきりと描かれていたのだ。
「どうして…? ただの偶然のはずがない…」 琴子の頭の中で、これまでバラバラだった記憶の欠片が、激しい音を立てて繋がり始める。健太の「優しい嘘」。白石さんの「目に見えるものだけが真実とは限らない」という謎めいた言葉。そして、このスケールの大きな「不思議な出来事」。全てが、この一冊のスケッチブックに集約されていくような、幻想的な感覚に襲われた。これは、探偵としての直感などという生易しいものではない。運命が、過去からのメッセージを届けに来たのだという確信にも似た戦慄だった。
カラン、と軽やかなドアベルの音が、琴子を我に返らせた。 都会的な洗練されたスーツに身を包んだ橘梓が、クールな表情で立っていた。彼女はいつものようにカウンターへ向かい、静子にブラックコーヒーを注文すると、ふと、琴子の机に視線を向けた。その目は、開かれたままのスケッチブックに吸い寄せられるように、ぴたりと止まった。 梓はゆっくりと琴子の机に歩み寄る。その冷静沈着な仮面に、普段は見られない微かな動揺が走ったのを、琴子は見逃さなかった。梓は思考を巡らせるように、無意識に左手の薬指の指輪をくるりと回した。 「山根さん、それは?」 梓の声は低く、抑揚がなかったが、その奥に隠された緊張が琴子に伝わってくる。 琴子は顔を上げ、梓の目をまっすぐに見つめ返した。 「これは、私の古いスケッチブック。でも、ただの思い出の品じゃないみたいなんです。橘さん、探偵は物事を偶然で片付けてはいけない、そうですよね。この絵を見てください。この猫の首輪…あなたも、何か心当たりがありませんか?私のこの『気がする』という非論理的な直感が、もし何らかの事実に繋がっているとしたら、それはもう、無視できない段階に来ていると思うんです」 スケッチブックを挟み、二人の探偵の視線が交錯する。喫茶「山猫亭」の穏やかな午後は、過去の謎が現在に投げかけた大きな波紋によって、その様相を一変させようとしていた。窓際の席で、白石が革の懐中時計の蓋をそっと閉じ、全てを見通しているかのように静かに微笑んでいた。
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