13話 ライバルから共犯者へ

大学図書館の空気は、僕にとって一種の鎮静剤だ。古紙とインクの匂いが混じり合った、知性の墓場のような静寂。無限に続くかのような書架の迷宮は、出口のないループを繰り返す僕の精神構造と奇妙なシンクロを見せる。この図書館は僕にとって、知識の宝庫というよりは、失敗パターンの標本室だ。あの棚の、上から三段目の、左から五冊目の専門書を、白石葵は先週のループで手に取った。その隣の席で、黒崎蓮はいつも完璧な角度で髪をかきあげながら、タブレットをスワイプする。全て、僕の「過去の選択メモ」に記録された、再現性の高い悲劇の断片に過ぎない。

今日もまた、その悲劇の主役、黒崎蓮がそこにいた。しかし、いつもと様子が違う。彼の周囲だけ、静寂が不自然に歪んでいる。数人の学生が、彼を遠巻きに、あるいは値踏みするように見ている。蓮はカウンターの前で、珍しく眉間に皺を寄せ、自身の鞄の中身をぶちまけていた。その完璧なポーカーフェイスに、焦燥という名のノイズが走っている。

「だから、ないんだって。僕が返そうとした本は、確かにここにあったはずなんだ」

彼の声には、普段の自信とはかけ離れた苛立ちが滲む。ループで培われた情報収集能力が、僕の脳内で瞬時に状況を再構築する。黒崎蓮が返却しようとした希少な学術書がない。カウンターの職員は困惑し、周囲は彼が借りパクを企んだとでも言いたげな視線を送っている。何と滑稽な喜劇か。常に勝利者であり続けた男の、些細だが決定的な蹉跌。以前の僕なら、この状況を「コレジャナイ人生」における数少ない娯楽として、安全圏から鑑賞していただろう。だが、今の僕は違う。僕の視線は、この騒動の真の原因を、既に捉えていた。

三列向こうの席で、ヘッドフォンをして自分の世界に没入している、経済学部の佐藤だ。彼の分厚いトートバッグの口から、問題の学術書の背表紙が僅かに覗いている。佐藤は先ほどのループでも、自分の本と間違えて隣の席の本を鞄に突っ込むという、コミカルなミスを演じていた。

僕は静かに立ち上がり、佐藤の席へ向かう。そして、何気ないふりをして彼に声をかけた。「佐藤、わりぃ。その鞄に入ってる本、多分黒崎のじゃないか?」指摘された佐藤は、驚いて鞄の中を改め、真っ青になって立ち上がった。

一連の流れを、黒崎蓮は信じられないものを見るような目で追っていた。誤解が解け、平身低頭に謝る佐藤と、安堵する図書館職員。その喧騒の中心から抜け出した蓮が、僕の前に立ちはだかる。片眉を上げる、いつもの自信に満ちた癖。だが、その瞳の奥には純粋な戸惑いが揺れていた。

「……桜木。なぜ、お前が俺を助けた?何のつもりだ。これは何かの計算か?俺に貸しを作り、白石さんの前で有利に立とうっていう魂胆か?言っておくが、そんな姑息な手段でどうにかなるほど、俺も彼女も甘くはないぞ。お前のその行動原理は、まるで解けない数式のようだ。不気味ですらある」

彼の言葉は、彼自身の価値観というフィルターを通した、真っ当な疑問だった。僕は緊張で乾く喉を潤すように、一度息を吸う。もう、口元に手をやる癖は出ない。

「計算? 違うな。そんな面倒な思考回路は、もう僕の『過去の選択メモ』の最終ページにでも封印してきた。黒崎、君が僕をどう分析し、どう定義しようと、それは君の自由だ。だが、僕が行動した理由は、君が考えるよりも遥かに単純で、おそらくは滑稽なほど純情なものだ。もし君がここで盗難の濡れ衣を着せられていたら、きっと白石さんは心を痛めるだろう。彼女はそういう人間だ。誰かが傷つくのを見て、平然としていられるほど鈍感じゃない。僕は、彼女が悲しむ顔を見たくない。僕が守りたいのは、彼女が当たり前に笑っていられる日常、そのものだ。僕の行動は、全てその一点に収束する。君が彼女をどう思っているかは知らない。だが、彼女を大切に思うその気持ちのベクトルだけは、恐らく僕と君は寸分の狂いもなく同じ方向を向いているはずだ。そうだろう?」

僕の独白じみた演説に、蓮は一瞬、言葉を失ったようだった。彼の知る、気弱で優柔不断な桜木悠真のデータには、今の僕は存在しないのだろう。やがて、彼の口元に、いつもの傲慢な笑みとは違う、どこか自嘲的で、それでいて何かを認めたような不敵な笑みが浮かんだ。

「……フン、面白い。お前、いつの間にそんな口が回るようになったんだ。まるで別人じゃないか。いいだろう、桜木悠真。お前も、白石葵に本気で懸けているらしいな」

ライバルから、初めて同じフィールドに立つ者として認められた瞬間だった。僕らは敵ではない。同じ星を目指す、二人の観測者だ。

僕はもう、彼に嫉妬しない。僕が乗り越えるべき壁は、黒崎蓮という存在ではなく、彼を前にして勝手に絶望していた、僕自身の弱さだったのだから。

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