1話 コレジャナイ朝のデジャヴュ

また、この味だ。 舌の上で再現される、昨日と寸分違わぬ甘さの卵焼き。鼻腔をくすぐる、昨日と寸分違わぬ豆腐とワカメの味噌汁の香り。 これはデジャヴュ、すなわち既視感。だが僕にとってこの感覚は、既視感という名の既成概念が、僕の脳内に存在するはずの「新しい一日」というポジティブな概念を真っ向から否定し、新たに「昨日と寸な二日酔いにも似た不快感を伴う。 「ああ、やっぱり今日も『コレジャナイ』」 誰に聞かせるでもなく、僕の唇から独り言が滑り落ちた。僕の人生はいつだってそうだ。この可もなく不可もない、しかし決して心の底から「コレだ!」とは思えない卵焼きのような代物なのだ。コレジャナイ人生。それが、桜木悠真、大学三年生の僕が、自らの二十年余りの生涯に下した、あまりにも情けなく、しかし的確すぎる評価だった。

大学へと続く、ゆるやかだが終わりの見えない坂道は、今日も色褪せたアスファルトの灰色を僕の眼前に晒していた。いや、実際には道端の花壇には色とりどりの花が咲き、行き交う人々の服装も様々だろう。だが、僕の網膜を通過した光信号は、どうやら脳に到達する過程で彩度という名の生命力を濾し取られてしまうらしい。高校時代、あの白石葵への告死――否、玉砕覚悟の告白が、結局は言葉にすらならぬまま無様に霧散して以来、僕の世界は再放送を繰り返す古いモノクローム映画のように、色褪せ、ざらついていた。 周囲の喧騒が遠い。友人たちの弾むような会話も、カップルたちの甘ったるい囁きも、まるで分厚い防音ガラスの向こう側で繰り広げられる、音のないパントマイムのようだ。僕だけが、この世界のキャストではなく、観客席に座っている。

その時だった。 雑踏という名の灰色の濁流の中に、一点だけ、ありえないほどの鮮烈な色彩が放たれた。 白石葵。 彼女が、数人の友人に囲まれて笑っていた。春の柔らかな陽光を一身に浴びたかのように輝くその姿は、僕のモノクロームの世界で唯一存在を許された、奇跡のような原色。その刹那、心臓が鷲掴みにされたかのような、甘酸っぱい痛みが走る。まるで古傷だ。彼女の存在そのものが、僕の「コレジャナイ人生」を象徴する、決して癒えることのないトラウマなのだ。初恋という名の甘美な毒は、数年経った今もなお、僕の全身を静かに蝕み続けている。

葵の姿が人混みの向こうに消えた後も、僕はその場に縫い付けられたように立ち尽くしていた。だが、疼く胸の痛みとは別の、もっと冷徹で論理的な違和感が、思考の片隅に引っかかっていた。 今、葵と話していた友人の甲高い笑い声。昨日も、まったく同じ場所で、寸分違わぬトーンで聞こえなかったか? 僕の横を猛スピードで通り過ぎていった、メッセンジャーバッグの青年の自転車。そのベルの音。昨日も、まったく同じタイミングで、鼓膜を震わせなかったか? ポケットの中のスマートフォンが震える。ディスプレイには、昨日と同じニュースアプリからの、昨日と同じ見出しのプッシュ通知。「駅前のカフェ、本日リニューアルオープン」。 まさか。 背筋を冷たい汗が伝う。僕は周囲を観察する。風景、人々の会話、信号の点滅、雲の形。全てが、昨日というフィルムを寸分の狂いもなく再上映している。これはデジャヴュなどという、感傷的な現象ではない。 時間が、巻き戻っている。

「……は、はは」 自分でも驚くほど乾いた笑いが漏れた。パニック? 混乱? いや、違う。これは……これはむしろ、福音ではないのか? 「これは、人生という名のゲームに発生したバグか? いや、そもそも僕の人生そのものが、仕様の不備とバグの塊みたいなものだったじゃないか。だとしたら、これはバグを修正するためのデバッグモードとでも言うべきか? 運命という名の横暴なプログラマーが、僕という出来損ないのキャラクターを見かねて、ついに与えてくれた修正パッチなのか? そうだ、もしそうなら話は全く変わってくる! これはもうバグなどではない。仕様の変更だ! 僕の救いようのない『コレジャナイ人生』を、輝かしい『コレダ!人生』へとシナリオを書き換えるための、公式に許された最終アップデートだ! あの告白の失敗、あの選択の過ち、僕を構成する全ての『コレジャナイ』要素を無かったことにできる、奇跡という名のチートコードじゃないか!」 思考が、言葉が、脳内で熱を帯びて爆発する。そうだ、これはチャンスだ。絶望ではない、希望だ。高校時代に臆病風に吹かれて砕け散った、あのひたむきで純情だった自分を、もう一度やり直せる。 白石葵。僕のモノクロームの世界に、唯一の色を与えてくれる存在。 彼女との未来を、今度こそ。僕自身の手で、「正しい選択」によって掴み取るんだ。 僕はいつもの癖で口元に伸びかけていた手をぐっと握りしめ、空を仰いだ。灰色の空が、ほんの少しだけ、青く色づいて見えた気がした。

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