第23話 プライドと友情のカデンツァ
港に近い坂道の途中にある喫茶店『海猫亭』の空気は、焙煎された珈琲豆の香ばしさと、年季の入った木製家具が放つ微かな甘い匂いで満たされていた。窓際の席。テーブルの上には、高槻夏帆が勢いのままに広げた『青のフーガ』の楽譜のコピーが置かれている。その五線譜を見つめる三つの影。興奮冷めやらぬ夏帆、穏やかな微笑みを崩さない湊誠、そして、相沢莉子は硬い表情で腕を組んでいた。
「――だから、この曲を歌いたいの。私たちで」
夏帆の言葉は、熱を帯びたまま店内の静けさに溶けていく。湊は面白そうに顎に手をやり、ただ静観している。沈黙を破ったのは、莉子だった。彼女の声は、張り詰めた弦のように冷たく響いた。
「冒涜よ」
たった一言。しかし、その言葉には彼女の音楽に対する哲学のすべてが凝縮されていた。夏帆は息を呑む。
「どうして……。こんなに、すごい曲なのに」 「すごい曲だからよ。これは、天宮くんという人間の魂の断片そのものじゃない。未完成で、傷だらけで、それでもなお美しい旋律。それを、事情も知らない私たちが、興味本位で、ましてや合唱なんていう形に作り変えるなんて……。それは芸術に対する、そして彼の苦しみに対する、あまりにも無神経な冒涜だわ」
莉子は背筋を伸ばし、その瞳は夏帆を真っ直ぐに見据えていた。プロの声楽家を目指し、日々ストイックな練習を自らに課してきた彼女にとって、音楽は神聖な領域だった。基礎を疎かにせず、作曲家の意図を完璧に汲み取り、一音たりともおろそかにしない。それが彼女の信条であり、プライドだった。
「音楽は遊びじゃないの、夏帆。あなたにとっては、ただの思いつきかもしれない。奏くんへの好奇心かもしれない。でも、私にとっては人生そのもの。作曲者がどんな想いでこの和音を選び、この休符を置いたのか。その葛藤の深さを考えもせず、安易に手を加えるなんて、私にはできない。許せない」 「遊びじゃない!思いつきなんかじゃないよ!」
夏帆は思わず立ち上がりかけた。テーブルの上のグラスの水面が揺れる。彼女は唇を噛み、必死に言葉を探した。莉子の言うことは、正論だ。あまりにも正しく、揺るがしようがない。だが、それでも引き下がることはできなかった。
「私だって、音楽がどれだけ大変で、どれだけ真剣なものかなんて、莉子が一番知ってるってわかってる。私には莉子みたいな才能もないし、毎日血が滲むような努力をしてるわけでもない。……空っぽだった。ずっと、何にも本気になれなくて、進路調査票の白さが怖くて、みんなが眩しくて……。そんな私が、初めて見つけたの。心の底から、これがやりたいって、叫びたいって思える音を!」
夏帆は楽譜を指差す。その指は微かに震えていた。
「これはただの曲じゃない。奏くんの叫びだよ。聴こえない? ピアノを弾けない彼の、本当は誰かに聴いてほしくてたまらない心の声が。完璧じゃなきゃ意味がないって自分を縛り付けて、苦しんでる彼の魂が、この音符の一つ一つに宿ってる。これを歌うことは、冒涜なんかじゃない。……救いになるかもしれないって、そう思うの。彼の、そして……何者にもなれないって焦ってる、私の」
嘘のない、むき出しの言葉だった。自分の弱さも、焦りも、すべてをさらけ出した魂の叫び。そのまっすぐなエネルギーに、莉子の表情が微かに揺らぐ。彼女は視線を落とし、テーブルの上の楽譜に目をやった。
そこにあるのは、確かに未完成のフーガだった。しかし、その旋律は恐ろしいほどの完成度と、心を掴んで離さない切実な美しさを秘めている。初めてこの楽譜を見た時から、莉子の内なる芸術家の魂は、この音楽の持つ力に気づいていた。それは、技術や理論だけでは到達できない、魂の領域から生まれた音だった。
湊が、静かに口を開いた。 「相沢さん」 「……はい」 「君は、正しい。音楽家としての君の矜持は、実に立派だ。では、一つだけ聞こう。君が幼い頃、病弱だった妹さんのために歌っていた歌は、完璧なものだったかな?」
その問いに、莉子ははっと顔を上げた。忘れていた記憶。コンクールのためでも、誰かに評価されるためでもなく、ただ愛する妹を安心させたい一心で歌っていた、拙い子守唄。技術的には未熟で、きっと音も外れていただろう。けれど、そこには確かに「心」があった。妹は、その歌を聴くといつも安らかに眠りについたのだ。
「音楽の価値は、完璧さだけで決まるものだろうか。誰かに届けたいという強い想い、それ自体に、音を奏でる資格はないと?」
湊はそれだけ言うと、また穏やかに珈琲カップを傾けた。
莉子は再び楽譜に視線を落とす。夏帆のまっすぐな瞳。湊の問いかけ。そして、五線譜の上で沈黙する、悲しいほどに美しい旋律。彼女の中で、固く守り抜いてきたプライドの壁に、ひびが入っていく。プロになる、という夢は、いつしか自分自身を縛るルールになっていなかったか。完璧さを求めるあまり、音楽が持つ最も根源的な力――人の心を繋ぎ、癒やす力を、見失いかけてはいなかったか。
夏帆の衝動は、確かに未熟だ。だが、その根底にあるのは、奏を、そして自分自身を救いたいという、どこまでも純粋な祈りだ。それは、かつて自分が妹のために歌っていた時の気持ちと、どこかで繋がっているのかもしれない。
長い沈黙の後、莉子はふぅ、と深く息を吐いた。そして、決意を秘めた瞳で夏帆を見つめ、楽譜のコピーを自分のほうへ引き寄せた。
「……あなたの歌、音がずれてる」
唐突な言葉に、夏帆は目を瞬かせる。
「え?」 「基礎がなってないのよ。息の支えも甘いし、ピッチも不安定。そんな歌で、この曲の魂に触れるなんて、それこそ本当の冒涜だわ」
莉子はそう言うと、持っていたペンで楽譜の余白に何かを書き込み始めた。それは、夏帆が歌うであろう主旋律のブレスの位置や、発声に関する注意点だった。
「……莉子?」 「勘違いしないで。私は、この曲を汚されるのが嫌なだけ。やるなら、完璧を目指す。中途半端は許さない。あなた一人の直感だけじゃ、この曲はただの感傷的なメロディで終わるわ。私が、理論と技術で、本物の芸術に昇華させてあげる」
それは、彼女なりの譲歩であり、宣戦布告であり、そして最高の友情の証だった。プロを目指すプライドを捨てたわけではない。むしろ、そのプライドがあるからこそ、夏帆の無謀な挑戦を、最高の形で支えようと決めたのだ。
「そこ、私が直してあげる」
その言葉には、親友への呆れと、音楽家としての矜持と、そして抑えきれない温かい愛情が、複雑な和音のように響き合っていた。
夏帆の目に、じわりと涙が滲んだ。 「……うん!」
彼女は力強く頷いた。空っぽだった五線譜に、最初の和音が書き込まれた瞬間だった。喫茶店の窓から差し込む西日が、テーブルの上の二人を、そして『青のフーガ』の楽譜を、優しい光で包み込んでいた。それは、やがて来る潮騒のプレリュードを予感させる、黄金色のカデンツァだった。
← 横にスクロールして読み進められます
