第2話 風変わりな指揮者
放課後の廊下は、様々な音のクレッシェンドに満ちていた。体育館から響くバスケットボールの跳ねる音、グラウンドへ向かう野球部員たちの威勢のいい掛け声、そして窓の外から吹き込む、潮の香りを乗せた風の音。高槻夏帆は、それらの音をBGMのように聞き流しながら、職員室からの帰り道を気怠く歩いていた。手に持った提出済みのプリントの束が、今の彼女の心のように軽くて、そして空っぽだった。
カツ、カツ、とローファーの踵がリノリウムの床を打つ。その規則正しいリズムに重なるように、夏帆は無意識に指先で空中に鍵盤を描いていた。意味のない、ただの癖。何かに夢中になっているわけでも、何かを待っているわけでもない、時間を持て余した心の空白がさせる、音のないタッピング。
「――高槻さん」
不意に背後からかけられた声に、夏帆はびくりと肩を揺らした。振り返ると、そこに立っていたのは音楽教師の湊誠だった。日に焼けてもいない白い肌に、色素の薄い髪。いつもゆったりとしたシャツを着ていて、その姿は教師というより、どこかの芸術家か哲学者のように見える。生徒たちの間での彼の評判は、「飄々として掴みどころがない、風変わりな先生」。
「湊先生……。何か?」 「うん。君は、面白い音を立てるね」
湊は悪戯っぽく目を細め、夏帆の指先を顎で示した。夏帆は慌てて宙を掻いていた手を下ろす。見られていた羞恥心で、頬が微かに熱くなった。
「別に、音なんて……。ただの癖です」 「癖、か。人間が無意識に行う動作には、その人間の本質が音符のように隠れているものだよ。君のリズムはなかなか複雑だ。短調のようでいて、時折、長調の明るさが顔を出す。まるで、出口を探しているフーガみたいだ」
ぽかん、と夏帆は口を開けた。何を言われているのか、さっぱり分からない。ポエムか、あるいは禅問答か。こういう曖昧で当たり障りのない会話が、夏帆は一番苦手だった。嘘をついてまで「いい子」でいる気はないし、かといって真正面から「意味不明です」と言い放つのも大人げない気がした。
「はあ……そうですか」 「君、合唱部に入らないか?」
唐突な誘いに、夏帆は今度こそ目を丸くした。合唱部。部員は親友の相沢莉子、ただ一人。プロの声楽家を目指す莉子が、たった一人で部の存続を守っている、いわば彼女の聖域だ。そこに、音楽の成績も平凡で、そもそも何かに本気で打ち込んだ経験すらない自分が?
「無理です、無理です! 私、歌とか全然だし。莉子みたいに、毎日毎日ストイックに練習なんてできません」 「僕は、君に相沢さんのようになってほしいとは言っていないよ」
湊は穏やかに微笑んだまま、言葉を続ける。その瞳は、夏帆の表面的な態度ではなく、もっと奥深くの、彼女自身も気づいていない何かを見透かしているようだった。
「僕はね、高槻さん。君に『君だけの音』を探してみないか、と誘っているんだ」 「……私だけの、音?」
その言葉は、まるで知らない外国語のように夏帆の耳を滑り落ちていく。しかし、その響きだけが、心のどこかに奇妙な引っかかりを残した。自分だけの、音。そんなものが、この世界にあるというのだろうか。進路調査票の白紙の四角を埋めることもできない、空っぽの自分の中に。
「意味、わかんないです」 夏帆は、これ以上この不思議な会話に付き合うのは時間の無駄だと判断し、くるりと背を向けた。建前も、お世辞もかなぐり捨てた、素っ気ない拒絶だった。それでいい。こういう訳の分からないことから、さっさと離れるのが一番だ。
「そうだろうね。今の君には、まだ聴こえない音だ」
湊の声が、静かに背中に追いすがる。
「音楽というのはね、高槻さん。決して、楽譜通りに美しい音を出すことだけがすべてじゃない。それは確かに一つの正解だ。でも、音楽の本質はもっと別のところにある。それは、自分という楽器が、この世界とどう共鳴しているのかを確かめる作業なんだ。君が叩くその指のリズムは、退屈しのぎなんかじゃない。君の魂が、何かを求めて、あるいは何かから逃げたくて、必死に鳴らしている音なんだよ。それは叫びかもしれないし、まだ言葉にならない祈りかもしれない。それを、自分自身で『聴いて』あげるところから、すべては始まるんじゃないかな」
足を止めるつもりはなかったのに、夏帆のローファーは勝手に床に縫い付けられていた。湊の言葉は、相変わらず哲学的で掴みどころがない。けれど、その言葉の一つひとつが、今まで誰も触れようとしなかった自分の内側の、柔らかくて不確かな部分を、優しく撫でるようだった。
「合唱部はね、他人の音を聴き、自分の音を知り、そしてそれを重ね合わせる場所だ。完璧な人間なんてどこにもいない。不完全な僕たちが、不完全な音を寄せ集めて、その瞬間にしか生まれないハーモニーを創り出す。それって、ちょっと素敵なことだと思わないか? 君みたいな、まだ自分の音色を知らない人間にこそ、僕は来てほしいんだがね」
それでも、夏帆は振り返れなかった。彼の言葉を肯定してしまえば、今までの「何にも本気になれない自分」が、根底から崩れてしまいそうな気がした。それは、心地よい誘惑であると同時に、得体の知れない恐怖でもあった。
「……先生のポエムには、付き合ってられません」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。夏帆は今度こそ、逃げるように早足で歩き出す。もう、彼の声が届かない場所へ。
その時だった。
夏帆が通り過ぎた湊の胸ポケットから、銀色の何かが鈍い光を放ったのが、視界の端に映った。古びた、二股に分かれた金属の棒。
――音叉(チューニングフォーク)。
なぜ、その名前がすぐに思い浮かんだのかは分からない。ただ、夕暮れの廊下に差し込む光を反射したその一瞬の煌めきが、まるで遠い記憶の扉を叩くように、強く、強く夏帆の心を打った。
夏帆は足を止め、ゆっくりと振り返った。しかし、湊はもう何も言わず、ただ静かに微笑んでいるだけだった。その手には、いつの間にか例の音叉が握られている。彼はそれを自分の耳元で小さく鳴らしたわけでもなく、ただ指揮棒のように軽く弄んでいる。
「……っ」
言葉にならない感情が込み上げて、夏帆は再び踵を返した。今度こそ、一度も振り返らずに。
自分の教室へ戻る渡り廊下で、ふと第二音楽室の前で足が止まる。莉子がいつも一人で練習している場所だ。案の定、中からは彼女が練習しているのだろう、イタリア歌曲の澄み切ったソプラノが漏れ聞こえてくる。寸分の狂いもなく、ひたむきで、どこまでも真っ直ぐな、莉子の「本気の音」。
その完璧な音を聴きながら、夏帆の頭の中では、先ほどの湊の言葉がリフレインしていた。
『君だけの音を探してみないか?』
莉子の音は、美しい。けれど、あれは私の音じゃない。じゃあ、私の音って、一体どこにあるんだろう。
「……意味わかんないって、ホントに」
夏帆は子供のように口を尖らせ、誰に言うでもなく呟いた。
西日に染まる空は、燃えるようなオレンジと、深い青のグラデーションを描いている。それはまるで、夏帆の心の中に生まれた、期待と戸惑いが混じり合った、名もなき感情の色のように見えた。
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