1話 空っぽの五線譜

高校二年の春。海からの風が教室のカーテンをゆるやかに膨らませ、午後の気怠い光を運んでくる。高槻夏帆は、窓際の席で頬杖をつきながら、その光の粒子が舞う様をぼんやりと眺めていた。耳には、いくつもの音が届いている。窓の外、乾いたグラウンドから響いてくる、幼馴染の橘健太が所属する野球部の掛け声。土を蹴るスパイクの音、金属バットが硬球を捉える快音。それから、すぐ隣の席。親友の相沢莉子が、息を詰めるようにして見つめる楽譜の上を、鉛筆が滑る微かな音。

それらすべての音が、夏帆にとっては遠い世界の出来事のようだった。まるで自分だけが、分厚いガラスの向こう側に取り残されているかのように。

手元に置かれた一枚の白い紙が、その感覚をさらに強固なものにしていた。B5サイズの、何の変哲もない進路調査票。そこには「将来の夢」「第一志望」といった、未来を問う残酷な言葉が黒々と印刷されている。夏帆のペンは、そのどの欄にもインクを落とすことなく、宙を彷徨っていた。

隣の莉子は違う。彼女の進路調査票は、迷いのない、流麗な文字でびっしりと埋められている。プロの声楽家になる。そのために、この国の最高峰である音楽大学に進むのだと。彼女にとって未来とは、遥か遠くに輝く北極星のように、疑いようもなくそこにある道標だった。彼女が楽譜に書き込むシャープやフラットの記号は、まるで未来への確かな足跡のように見えた。

「夏帆、ここの発声、どう思う?」

不意に、莉子が小声で話しかけてきた。彼女が指し示す五線譜には、イタリア語の音楽用語と共に、彼女自身の解釈が細かく書き込まれている。

「んー…ごめん、よくわかんないや」

夏帆は曖昧に笑って首を振る。莉子は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに「そうよね、ごめん」と呟き、再び楽譜の世界へと沈んでいった。その真摯な横顔は、夏帆にとって憧れそのものだった。けれど同時に、その輝きは鋭い針となって、夏帆の胸をちくりと刺す。私には、あんなふうに夢中になれるものがない。彼女が奏でる完璧なハーモニーの中に、私の入れる音階は一つもない。

昼休み、食堂の喧騒の中で、健太が水の入ったコップを夏帆の前にどんと置いた。

「ほらよ。お前、また上の空だったろ」

快活な笑顔は、太陽みたいに眩しい。彼は野球部の練習で汚れたユニフォームのまま、夏帆の向かいにどかりと腰を下ろした。

「別に。ちょっと考えごとしてただけ」

「考えごとねえ。お前がそんな殊勝な顔してると、明日は槍でも降るんじゃないか?」

からかうような口調に、夏帆はむっとして口を尖らせる。その子供っぽい仕草を見て、健太は声を立てて笑った。

「で、だ。明日の練習試合、応援に来いよ。絶対だぞ。俺がエースとして投げるとこ、ちゃんと目に焼き付けとけ」

「んー、行けたらね」

まただ。また、心にもない曖昧な返事をしてしまう。本当は「行くよ、楽しみにしてる」と、健太が望む言葉を返してあげたいのに、それができない。彼の「本気」を、今の自分がどんな顔で受け止めればいいのか、わからなかった。

「…なあ、夏帆」

健太の声のトーンが、不意に少しだけ低くなった。食堂のざわめきが、ふっと遠のく。

「お前、最近マジでどうしたんだよ。昔はさ、もっと馬鹿みたいに、腹の底から笑ってたじゃんか。俺が試合で三振しようが、テストで赤点取ろうが、お前が隣でゲラゲラ笑ってりゃ、まあいっか、って思えたんだ。でも今のお前、笑ってるけど、心が全然笑ってない。わかるんだよ、俺。野球やってる時、マウンドからお前のいる教室が見えるんだ。でも、お前の視線は俺のいるグラウンドじゃなくて、もっと遠くの、何もない空を見てる。…俺、何かしたか? それとも、俺の知らないとこで、何かあったのか? 教えてくれよ。俺たち、幼馴染だろ。お前のこと、一番わかってるつもりだったのによ。わかんねえよ、最近のお前」

真っ直ぐな瞳が、夏帆を射抜く。その真剣さが、苦しかった。彼の優しさが、痛かった。嘘をついてまで「いい子」にはなりたくない。でも、本当のことを言って彼を困らせたくもない。夏帆の唇から、か細い息が漏れた。

「…別に、何でもないって言ってるでしょ。健太はいいよね。野球があって。甲子園っていう、はっきりした目標があって。莉子もそう。プロになるって決めてて、毎日毎日、あんなにストイックに練習して。二人ともすごいよ。キラキラしてて、眩しくて、まっすぐで。…じゃあ私は? 私には何がある? 進路調査票の『将来の夢』の欄、なんて書けばいいの? 『特にありません』って書けば、先生は心配そうな顔するし、かと言って、適当な大学の名前なんて書きたくない。自分の気持ちに嘘はつきたくないから。…空っぽなんだよ、私。健太みたいに、莉子みたいに、本気で叩ける心のドアがないの。だから、アンタらが眩しすぎて…時々、どうしようもなくなるの。ごめん、健太のせいじゃない。全部、私の問題だから…」

早口でまくし立てると、夏帆は俯いた。健太が息を呑む気配がする。彼は大雑把に見えて、人の心の機微には聡い。きっと今、かけるべき言葉を探して、途方に暮れているだろう。それが申し訳なくて、夏帆は立ち上がった。

「ごめん、先に戻る」

彼の返事を聞かずに、夏帆は食堂を後にした。背中に突き刺さる心配そうな視線を感じながら、自分の不器用さを呪った。

放課後の教室には、西日が長く影を落としていた。ほとんどの生徒は部活や帰路につき、がらんとした空間には静寂が満ちている。夏帆は自分の席に戻り、再び真っ白な進路調査票と向き合った。空っぽの五線譜。音符を書き込む術を知らない、無力な自分。

何者かにならなければ。

その強迫観念が、鉛のように心にのしかかる。小学生の頃、習い事はどれも中途半端に終わった。中学生の頃、友人関係でうまく立ち回れず、孤立した時期もあった。いつだってそうだ。私は何事も「本気になりきれない」。だから、いつも大事なものを取りこぼしてきた。

そんな自分が嫌で、嫌でたまらなかった。

無意識に、夏帆は手に持っていたシャープペンシルで机を叩き始めた。

カツ、カツ、カツ、カツ…。

乾いた、無機質なリズム。それは誰のメロディでもない。何の感情も乗っていない、ただの焦りの表明。

グラウンドから聞こえていた野球部の声は、もう止んでいる。莉子も、きっともう合唱部の部室で発声練習を始めている頃だろう。彼女の放つ、天にまで届きそうな美しいソプラノ。健太がミットに投じる、魂のこもった剛速球の音。

世界は、こんなにも豊かな「本気」の音で満ちているのに。

カツ、カツ、カツ、カツ…。

私の音は、これだけ。

意味のないリズムを刻み続ける指先を、夏帆はただじっと見つめていた。まるで、それが自分自身であるかのように。夕陽に染まる教室で、その乾いた音だけが、彼女の存在を証明するかのように、虚しく響き渡っていた。空っぽの五線譜に、まだ記されるべきメロディの気配は、どこにもなかった。

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空っぽの五線譜 - 青のフーガ - 誰でも作家life