3話 炎の記憶

昭和三十二年一月三十日。午後二時。  千恵子は薬莢を拾い集めていた。米軍基地の演習場跡に散らばった空の薬莢は、くず鉄屋に売れば一日分の食費になった。十歳の息子を育てるシングルマザーにとって、それは貴重な収入源だった。  「ママサン!」  米軍兵士の声がした。千恵子は振り返らずに作業を続けた。こういう時は関わらない方がいい。いつもそうしていた。  「ママサン ダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」  兵士の声が近づいてくる。千恵子はようやく顔を上げた。若い兵士が何かを構えて、こちらを狙っているようだった。  冗談でしょう。そう思った瞬間だった。  乾いた音が響いた。  千恵子の背中に何かが激突し、彼女は前のめりに倒れた。薬莢が手からこぼれ落ちて、地面に散らばった。  "Oh, shit!"兵士の声が聞こえた。  千恵子は地面に倒れたまま、空を見上げていた。雲がゆっくりと流れている。息子の顔が浮かんだ。喫茶店で待っている誠司。今日は帰りにマドレーヌを買ってやる約束だった。  意識が遠のいていく。誠司、誠司、と心の中で呼び続けた。  そして、すべてが静かになった。  ---  その頃、群馬の小さな喫茶店『ひまわり』で、誠司は窓際の席でマドレーヌをかじりながら母の帰りを待っていた。十歳の少年には少し退屈だったが、ここなら安全だった。母がいつも言っていた。「お母さんが薬莢を拾いに行っている間、ここで待っていなさい。絶対に基地には近づいてはだめよ」  米軍基地までは片道三十分以上の道のりだった。母は朝早く出かけて、夕方に戻ってくる予定だった。  隣のテーブルでは、東京から来たらしい親子連れがパフェを食べていた。お父さんは背広を着た上品な男性で、七歳くらいの女の子は綺麗なワンピースを着ていた。誠司は自分の継ぎはぎだらけの服を見下ろした。  時計の針が午後六時を回った。喫茶店の閉店時間になっても、母は帰ってこなかった。  「坊や、お母さんはまだ?」店主のおばさんが心配そうに聞いた。  誠司は頷けなかった。胸に嫌な予感が広がっていた。  隣のテーブルの男性が立ち上がった。「それでは私が交番に連れて行きますよ」  「先生、でも」店主が遠慮した。  「いえいえ。こんな時に子供を一人にしておくわけにはいきません」  「往診していただいただけでなく、そんなことまで。ありがとうございます」  男性は優しい声で誠司に話しかけた。「君のお名前は?」  「高瀬誠司です」  「そうか、誠司くん。お母さんを探しに行こう」  女の子が誠司の手を取った。「大丈夫よ。きっと見つかるわ」  交番に着いたが、警察官はいなかった。近所の人の話では、基地で大きな事件が起きて、警察官は皆そちらに出払っているという。  「困りましたね」男性が呟いた。  「お父様、この子をうちに泊めてあげましょう」女の子が提案した。  「陽子」  「お母さんが心配で一人にできないでしょう?」  陽子という名前だった。誠司は初めて聞く優しい響きに、少し心が和んだ。  その夜、誠司は生まれて初めて、本当の家庭の温かさを知った。陽子の家は大きくて、お風呂は湯船いっぱいにお湯が張ってあり、夕食には見たこともないご馳走が並んだ。  「誠司くん、遠慮しないで食べなさい」陽子の母が微笑んだ。  翌朝、陽子の父が新聞を読みながら顔を曇らせた。  「どうしたの、お父様?」  「基地で痛ましい事件があったようだ。日本人の女性が米軍兵士に撃たれて亡くなった」  父親は新聞記事を読み進めた。「被害者は四十六歳の女性。シングルマザーで、十歳の息子がいるとある」  陽子の父の顔が青ざめた。彼は誠司を見つめ、それから新聞をもう一度確認した。  「誠司くん、君のお母さんの名前は?」  「高瀬千恵子です」  新聞には確かに「高瀬千恵子さん(46)」と書かれていた。  「すぐに警察に連絡しなければ」  それが、誠司が母の死を知った瞬間だった。十歳の少年には、あまりにも重い現実だった。  誠司は泣かなかった。泣いても母は帰ってこない。それより、なぜこんなことが起きたのかが分からなかった。  警察への連絡、新聞社を通じての親戚探し。そうした大人たちの動きの中で、誠司は陽子の家にいた。  五日間。誠司にとっては夢のような時間だった。母の死という現実があっても、陽子は毎日誠司と遊んでくれた。本を読んで聞かせてくれたり、絵を描いて見せ合ったり、庭でかくれんぼをしたり。誠司の心の中にあった、世の中への恨みやささくれが、少しずつ溶けていくのを感じた。  五日目の夕方、大阪から親戚のおじさんが迎えに来た。新聞記事を見て連絡してきたという。  「世話になったな」おじさんは疲れた顔をしていた。  陽子の家族に別れを告げる時、誠司は初めて泣いた。陽子も泣いていた。  「また会えるよね?」陽子が聞いた。  「きっと」誠司は答えた。  陽子の家の前には新聞記者が集まっていた。十歳の誠司はここ数日、新聞を賑わしていた事件の新たな被害者として取材を受けた。  「君はこの事件をどう思う?」  誠司には、その質問の意味がよくわからなかった。ただ、カメラのフラッシュが眩しくて、たくさんの大人たちが自分を見つめているのが怖かった。  大阪での生活は辛かった。おじさんの家は貧しく、誠司は邪魔者扱いされた。学校ではいじめに遭った。「お前の母親は米兵に殺されたんだろ」「恥ずかしくないのか」  誠司は徐々に世の中を憎むようになった。母を殺したアメリカ人。軽い処罰しか与えなかった日本の政府。そして、そんな理不尽を受け入れて生きている大人たち。  でも、心の奥底には、陽子の家での五日間の記憶が残っていた。人は優しくなれる。世の中にも温かさがある。その記憶だけが、誠司を完全な人間不信から救っていた。  高校を卒業して早稲田に進学した誠司は、学生運動に身を投じた。理不尽な権力に対する怒り、アメリカへの憎悪、それらが彼を突き動かした。でも、どこかで彼は人間の善性を信じていた。それは、あの五日間があったからだった。  昭和四十四年の春、京都でのデモで警官隊との衝突があった。誠司は頭を殴られ、血を流して路地裏に倒れ込んだ。  「大丈夫ですか?」  声をかけてきたのは、女子大生らしい女性だった。ハンカチで誠司の傷を拭いてくれる。  「病院に行きましょう」  「いや、大丈夫だ」  「でも、血が」  女性の優しい目を見つめながら、誠司は何かを感じた。どこかで会ったような温かさ。でも思い出せない。  「君の名前は?」  「富永陽子です。心理学を勉強しています」  陽子。その名前を聞いた瞬間、誠司の胸に懐かしさが蘇った。でも、はっきりとは思い出せなかった。十三年という時間が、幼い記憶を曖昧にしていた。  「僕は高瀬誠司」  「誠司さん」陽子が微笑んだ。  二人とも、その懐かしさの正体に気づくことはなかった。ただ、お互いに特別な感情を抱いた。  それが、二人の恋の始まりだった。運命は、十三年の時を経て、二人を再び出会わせた。しかし、彼らは、その運命の糸に気づかないまま愛し合うことになる。  誠司にとって陽子は、失われた温かさを取り戻してくれる人だった。だからこそ、彼女を愛した。そして、だからこそ、彼女を汚れた世界に巻き込みたくなかった。  愛と憎悪の間で揺れながら、誠司は陽子との関係を深めていく。そして万博の日、彼は再び選択を迫られることになる。  陽子を愛するか、それとも世の中への怒りを選ぶか。  太陽の塔の下で、運命の皮肉は完成する。二人は、自分たちの愛がどれほど深い絆で結ばれていたかを知らないまま。  ゲーンズブールが歌ったように、愛とは永遠に答えの出ない問いかけなのかもしれない。Je t'aime... moi non plus. 愛してる、いや、愛してない。二人の心は、いつまでもその狭間で揺れ続けるのだった。

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