第10話 返事を書く前に

翌朝、部室の扉を開けると、床に新しい靴跡があった。
昨日まで残っていた俺たちのものとは違う。泥の幅が細く、歩幅も揃っている。誰かが早く来て、用具を運んだのだろう。扉の脇には、蒼が作った練習表が貼られていた。
開始時刻、メニュー、休憩時間、終了時刻。
余白がほとんどない。
俺は紙の端を指で押さえた。画鋲が少し曲がっている。直そうとして手を伸ばしかけ、それからやめた。曲がっていても、紙は落ちていない。
「それ、触らないんですか」
背後から声がした。
振り返ると、蒼がボールの入った籠を押して立っていた。寝不足なのか、目の下に薄い影がある。それでも練習表の数字だけは、昨日と同じ角度で揃っていた。
「画鋲が曲がってる」
「落ちるなら直します」
「落ちてない」
「なら、問題ありません」
蒼はそう言って、籠を壁際へ寄せた。以前なら、俺は何も言わず画鋲を抜いていた。曲がったままのものを見ると、次に崩れる場所まで想像してしまうからだ。
けれど、すべてを先に直すことが、誰かのためになるとは限らない。
「神谷」
「はい」
「昨日の練習表、見た」
「感想は?」
「細かいな」
「必要なので」
「俺なら、もっと余白を作る」
「相馬先輩なら、余白に気合いを書きますよね」
蒼の声には、わずかな皮肉があった。
俺は笑いそうになった。以前なら言い返していた。気合いを馬鹿にするな、と。数字だけで人が動くと思うな、と。
でも、蒼の練習表には、誰がどこで休むかまで書かれていた。休憩をなくしたいわけではない。休む時間を決めることで、誰も勝手に無理をしないようにしている。
「休憩の取り方は、悪くない」
「褒めてますか」
「たぶん」
「曖昧ですね」
「今は、それくらいでいい」
蒼は少しだけ眉を動かした。笑ったわけではない。ただ、何かを計算するような顔でもなかった。
「昨日、佐伯と話したんですか」
ボール籠の車輪が、床の継ぎ目で小さく鳴った。
「聞いたのか」
「見ました。帰る時間が遅かったので」
「そうか」
「内容は聞いてません」
蒼はそこで一度黙った。言葉を選んでいるというより、必要な言葉だけを残そうとしているようだった。
「佐伯は、今日の練習に来ます」
「たぶん」
「たぶん?」
「来るかどうかを、俺が決めることじゃない」
蒼は練習表へ視線を戻した。
「続けるんですかね」
「それも、俺が決めることじゃない」
「先輩は、昨日からそればかりですね」
責める調子ではなかった。蒼自身が、その言葉を口にしたことで少し驚いているように見えた。
「俺は今まで、決めることが責任だと思ってた」
「違いますか」
「違わない。ただ、決めないことを任せるのも、責任の一部だったらしい」
蒼は返事をしなかった。
部室の奥で、古い扇風機が一度だけ軋んだ。窓から入った風が、壁の練習表を揺らす。曲がった画鋲が、紙の重さに耐えている。
「先輩の戦術ノート、借りてもいいですか」
「俺の?」
「去年の秋の記録が見たい。相手の崩れ方と、交代の判断が書いてあるはずです」
俺は鞄からノートを取り出した。最後のページには、凛の下書きが挟まっている。蒼に見られないよう、指で押さえながら途中まで開いた。
「必要なところだけなら」
「全部では駄目ですか」
「全部読むと、俺の癖まで移る」
「それは困りますね」
蒼はノートを受け取り、表紙を撫でた。擦り切れた角に、親指が触れる。
「先輩は、このノートを部に残すつもりですか」
「迷ってる」
「置いていけば、使います」
「使い方は考えてくれ」
「中身を変えても?」
「変えた方がいい」
蒼は短く頷いた。
そのとき、廊下から足音が近づいた。凛だった。制服の袖を整えながら、部室の前で一度立ち止まる。俺と蒼を見て、それからノートへ視線を落とした。
「おはようございます」
「おはよう」
蒼が先に返した。
「今日のメニュー、変更はありません。準備だけ手伝ってください」
「分かりました」
凛は部室へ入り、壁際の道具を確認し始めた。いつものように、タオルの端を揃え、ボールの数を数える。けれど昨日までと違って、蒼の指示を待つ前に、置き場所を一つだけ変えた。
「そこ、違いますか」
蒼が尋ねた。
「こっちの方が取りやすいです。走る方向と逆なので」
「理由は?」
「前に、ぶつかったので」
蒼は道具の位置を見た。すぐには戻さなかった。
「分かりました。今日はそれで」
凛は小さく頷いた。
そのやりとりを見ていると、胸の奥に、遅れて何かが届いた。凛はずっと、こういうことを言いたかったのかもしれない。大きな不満ではなく、タオルの置き場所や、休むタイミングや、声をかける順番のような、小さく見えることを。
俺はそれらを、勝つためには後回しにしていいものだと思っていた。
「相馬先輩」
凛がこちらを向いた。
「昨日の下書き、返してください」
「持ってる」
「捨ててもいいです」
「捨てない」
「でも、読む必要もないです」
「読んだ」
凛の目が、一瞬だけ揺れた。
「だから、返事を書く」
「返事は、いりません」
「俺にはいる」
言ってから、少し強く出たと思った。凛の肩がわずかに固まる。
俺は息を吸い直した。
「おまえに返事を求めるためじゃない。俺が、今までみたいに分かったつもりで終わらないために書く」
凛は目を逸らした。けれど、昨日のように黙ったまま離れてはいかなかった。
「……先輩らしいですね」
「何が」
「自分で書いて、自分で受け取ろうとするところです」
蒼がノートを閉じた。
「練習、始めます」
凛が笛を手に取る。蒼はいつもの位置へ立ち、短く指示を出した。声は大きくない。それでも部室の空気が動く。
俺は二人の後ろから外へ出た。
校庭には、昨日の靴跡がまだ残っている。新しいものがその上を重なり、古い形を少しずつ隠していた。
部室の窓から、笛の音が聞こえる。
俺は校舎脇のベンチに座り、鞄から便箋を出した。手紙への返事は、まだ一文字も書けていない。
ペン先を紙に置く。
謝ることから始めるのか、感謝から始めるのか、それとも別の言葉にするのか。決められないまま、俺はしばらく紙の白さを見ていた。
やがて、最初の一行を書いた。
――俺は、きみが見ていた俺を、まだ全部受け取れていない。
蝉の声が、校庭の向こうで続いている。
俺は急がず、その下へ次の言葉を置いた。
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