第9話 証言の順番

記録館の奥、資料の匂いが沈殿したような小部屋で、リディア・グラーフは朔たちを迎えた。机の上には、すでに彼女自身の手で角を揃えられた営業時間簿が三冊、几帳面な間隔を保って並んでいる。その並べ方だけで、朔は彼女がこの聞き取りをどう受け止めているかを悟った。拒むのではない。ただ、崩れないように備えている。
「空白の日の記録について伺います」
ヘルマンが切り出すと、リディアは台帳の表紙に指先を置いたまま、しばらく動かなかった。窓から差し込む朝の光が、彼女の指先の爪の形まで照らし出している。
「記録は欠けています」
彼女はそれだけを言った。短い答えだったが、声の置き方にほんの一拍の硬さがあった。朔はその拍の長さを数えるように黙って見ていた。彼女が噓をついているのではない。むしろ、嘘をつかないために、言葉を極限まで削っている。
「欠けていることは、いつから分かっていたんですか」
朔が尋ねると、リディアは視線を上げた。眼鏡の奥の瞳は、怒っているのでも怯えているのでもなく、ただ長く抱えてきた重さをそこに湛えていた。
「欠けたことを記録するかどうかは、別の問題です」
「別の問題、というのは」
「記録係の仕事は、起きたことを書き残すことです。でも、欠落そのものを書き残せば、欠落の理由を誰かが探し始める。探せば、名前が出る。名前が出れば、その人間は町の中で生きていけなくなる。私はそれを、記録の仕事だとは思えませんでした」
リディアの声は、終始低く、静かだった。だが、机の上の台帳を見下ろす視線には、長年そこに紙を守ってきた者だけが持つ、固い誇りがあった。
「町を守るためだと?」
「町のためという言葉を、私は信用していません」
意外な答えに、朔は目を上げた。リディアは唇の端をわずかに緩めた。自嘲に近い表情だった。
「町のためと言えば、誰も反論できなくなる。だから私も、それを都合よく使ったことがあります。でも、本当のところは違う。私は、ある人を守りたかっただけです。誰かを告発することで、その人がどう扱われるかを、私はよく知っていましたから」
「誰を守ったんです」
リディアは答えなかった。代わりに、台帳の一冊を静かに閉じた。紙と紙が重なる音が、部屋の静けさの中で妙に重く響いた。
「守っているのは紙だけじゃない」
朔は、そうつぶやくように言った。
「紙の外にある、何かの順序だ。あなたは、誰が傷つき、誰が責められるか、その順番を決めている」
リディアの肩がわずかに強張った。だが、彼女はそれを認めるでも否定するでもなく、ただ机の端をそっと指でなぞった。
「順番を決める権利なんて、私にはありません。ただ、記録には確かに、順番を変える力がある。それを、私は怖いと思っています」
その言葉を最後に、リディアはそれ以上何も語らなかった。だが朔には、彼女がまだ何も噓をついていないことだけは分かった。知らないのではない。知らないふりを選んだのでもない。ただ、語るべき順番を、まだ誰にも許していないだけだった。
午後、二人はハインリヒ・ベックの倉庫を訪ねた。荷札や帳簿の束が積まれた薄暗い室内で、ハインリヒはいつもの笑みで二人を迎えた。
「お二人揃って、今日はまた物々しいですね」
彼は帳簿を広げ、数字をなぞる指先を止めずに話し続けた。受け渡しの時刻、荷の重量、封印の有無。問われてもいないことまで、彼は滑らかに語った。まるで、言葉の量で沈黙の隙間を埋めようとするように。
「空白の日の前後、工房への配送記録を見せてください」
朔が言うと、ハインリヒは笑みを崩さず帳簿のページをめくった。だが、その指の動きがほんの一瞬、遅れた。
「ああ、あの時期は立て込んでいましてね。何しろ、取り壊し前の工房というのは、いろいろな荷物が出入りするものです」
「荷車の行き先は?」
「いろいろですよ。記録に残っている通りです」
ハインリヒは窓の外へ視線を向けた。その先には、荷車も人影もない、ただ霧に沈んだ石畳があるだけだった。朔はその視線のずれに気づいた。人は見たくないものから目を逸らすとき、必ず何かを見ている。ハインリヒが見ていたのは、そこにないはずの何かだった。
「あなたの帳簿の記載と、受け渡し帳の行が、少しずつずれています」

マリーが静かに指摘した。白手袋の指先が、二冊の帳簿を並べて示す。
「押印の位置が、毎回同じだけ右に寄っている。一度や二度なら癖でしょう。でも、空白の日の前後だけ、綺麗に揃ってずれている」
ハインリヒの笑みが、半歩だけ遅れた。
「それは……単に、机の配置を変えた時期だったからかもしれません」
「机を変えれば、押す角度まで変わりますか」
「さあ、そこまでは」
彼はそう言って、また笑った。だが、その笑顔は、もう何も隠していないふりをするための笑顔ではなかった。何かを隠していることを、隠しきれていない笑顔だった。
「ザムエル・ヴァイスを知っていますね」
朔が静かに尋ねると、ハインリヒの指が帳簿の端で止まった。
「ええ、知っていますよ。町の人間なら、誰でも」
「彼の荷物を運んだことは」
「さあ、覚えていませんね。荷物というのは、依頼主の名前より先に、中身と重さで覚えるものですから」
言葉の選び方は巧みだった。噓はついていない。だが、答えてもいない。朔はその境界線の細さに、かえって確信を強めた。ハインリヒは、記憶をずらすことに長けている。その技術は、誰かに教えられたものではなく、長年のあいだに磨き上げた処世術だった。
夕刻、ヴィーゼ工房でヴィオラが待っていた。彼女はいつもの椅子に腰かけ、ひびの入ったカップを両手で包んだまま、長い沈黙を続けていた。朔が何かを尋ねる前に、彼女のほうから先に口を開いた。
「私の記憶は、もう完全ではないよ」
その言葉は、これまでのどの前置きよりも率直だった。
「それでも、話してくれるんですね」
「話さなければ、あなたは紙だけを信じて進むことになる。紙は噓をつかないけれど、全部を語りもしない」
ヴィオラはカップを膝の上に置いた。湯気はもう立っていない。
「エルンストは、失踪の前夜、時計の中に何かを入れた。そのとき、工房の空気が急に冷えたのを覚えている。窓も開いていないのに、まるで外の霧がそのまま入り込んできたようだった」
「何を入れたか、見ましたか」
「見ていない。でも、音は聞いた。小さな、紙を折るような音だった」
彼女は言葉を切り、長く息を吐いた。
「私は、全部を語れない。でも、語り切らないことにも、意味があるはずだよ。あなたが子どもの頃から、私はそう思って生きてきた。見せられるのは全部じゃない。でも、全部じゃないからこそ、重いんだ」
その言葉を、朔は黙って受け取った。証言とは、確かなことだけを並べるものではない。曖昧さごと差し出すことにも、責任が宿る。ヴィオラの瞳には、長年その責任を背負ってきた者だけが持つ、静かな疲労があった。
その夜、朔とマリー、ヘルマンは工房の机に、集めた証言と記録を並べ直した。リディアの沈黙。ハインリヒのずれ。ヴィオラの断片。塔時計の停止時刻。受付印の向き。工房の出入り記録の欠落。それらすべてが、ひとつの夜の出来事を、別の日へ押しやるための布置として浮かび上がってくる。
ヘルマンは机の端で、長い間黙っていた。やがて、彼は静かに言った。
「空白の日は、偶然ではありません」
その声には、もう手続き上の硬さだけではない、処理しなければならない事実を前にした、職務者としての重みがあった。
朔は未来日付の依頼票を、もう一度机の中央に置いた。紙の繊維、折り目、受付印の深さ、署名の浅い払い。ひとつの紙片が、受付票であり、偽装であり、証言でもある。
隠した者がいる。
ならば、探す場所もある。
朔は工房の奥、まだ完全には開いていない裏蓋の隙間を見た。そこに差し込まれた紙の端が、霧の中の町の輪郭のように、わずかに白く浮かんで見えた。
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