第10話 紙の裏側

朔は、懐中時計の空洞から覗く紙の端に、ピンセットを近づけた。
引けば出てくるように見える。だが、紙は入口の金属板に沿って二度折られていた。無理に引けば破れる。破れれば、折り目に残った文字の一部が失われる。
マリーが隣から覗き込んだ。
「まだ触らないで」
「分かっている」
「分かっている人は、そういう持ち方をしない」
朔は指先を止めた。自分では気づかなかったが、ピンセットの先端が紙の繊維に食い込んでいる。彼は力を抜き、道具を作業台へ戻した。
ヘルマンが腕時計を見た。
「日付が変わるまで、あと三時間です」
「それが何か?」
「依頼票の日付です。明日になれば、あの紙は未来ではなくなる」
ヘルマンの声は平板だった。けれど、いつもより早く言葉が出ていた。彼もまた、未来日付という仕掛けが、日付の変化によって効力を失うことを意識しているらしい。
マリーは依頼票を光に透かした。裏面には何もない。正確には、何も書かれていないように見える。
「この紙、裏側の繊維だけが潰れている」
「折り目ではなく?」
「折り目なら線になる。これは、何か硬いものを重ねて押した跡。薄い板か、印章のようなものを置いていた」
朔は依頼票を受け取り、紙の中央を指でなぞった。冷えた繊維の下に、わずかな凹みがある。目では見えない。触れて初めて分かる程度の沈みだった。
「文字を書いたあとに、何かを押しつけた」
「そう。しかも、かなり長い時間」
マリーは眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。
「インクの沈み方が不自然なの。表面だけが乾いたのではなく、紙の内部へ押し込まれている。濡れた紙の上に、薄い金属板を置いた可能性がある」
「文字を消すために?」
「逆。文字を裏へ移すために」
朔は依頼票を裏返した。
何もない白い面に、斜めから灯りを当てる。すると、そこにごく薄い影が浮かんだ。文字ではない。罫線のようなものが二本、それから短い縦線が三つ。
マリーが息を止めた。
「これは、営業時間簿の記号に似ている」
「空白の日の記号か」
「まだ断定できない。でも、リディアが見せなかった控えの余白にあったものと同じ幅よ」
ヘルマンが身を乗り出した。
「何を示す記号です」
「時刻ではないと思う。時刻なら、縦線の間隔が均等すぎる」
マリーは紙片を取り、記録館から持参した複写を隣に置いた。空白の日の前後にだけ現れる、意味の分からない記号。その一つが、依頼票の裏側に浮かんだ線と重なった。
「これは場所を示している」
朔は工房を見回した。
棚。作業台。裏口。保管室。
「工房の中の場所?」
「たぶん。けれど、記録館の古い分類記号にも見える」
ヘルマンが低く言った。
「つまり、工房と記録館の両方に関係する」
そのとき、正面扉の向こうで靴音がした。
一歩。
続いて、二歩。
誰かが扉の前で立ち止まった。霧の水滴が、木の表面をゆっくり滑り落ちる音まで聞こえる。
朔は依頼票を懐中時計のそばへ戻した。マリーが紙束を閉じ、ヘルマンは無意識に手帳へ手を伸ばす。
扉が三度、軽く叩かれた。
「開いているなら、入ってもいいですか」
ザムエル・ヴァイスの声だった。
朔は返事をしなかった。
「朔さん。そんなに警戒しなくてもいい。私はただ、忘れ物を取りに来ただけです」
「何を忘れたんです」
「それを確認するために来たんですよ」
声の調子は穏やかだった。だが、最後の音だけがわずかに低い。ザムエルが相手の返答を待つときの声だと、朔は前にも感じたことがあった。言葉を急がせ、相手のほうから扉を開けさせるための間。
ヘルマンが朔を見る。
朔は頷いた。
錠を外すと、ザムエルが立っていた。濡れた外套の肩に、霧の白い粒が付いている。片手には細長い革鞄。もう片方の手には、古い帳面が抱えられていた。
「夜分に失礼します」
彼は工房へ入り、まず作業台を見た。視線が懐中時計へ移る。ほんの一瞬だったが、朔は見逃さなかった。
「忘れ物というのは、それですか」
「帳面のほうです。以前、エルンストに預けていたものがありましてね」
「中身は?」
「町の古い修理記録です」
ザムエルは笑い、帳面を作業台へ置いた。表紙は湿っていない。外にいた時間を考えれば、革鞄から出したばかりなのだろう。
マリーが帳面の背を見た。
「この綴じ方、記録館のものではありません」
「記録館から借りたとは言っていませんよ」
「でも、分類番号が押されています」
ザムエルの指が、表紙の端で止まった。
朔は帳面を見た。背表紙の下に、薄い数字が刻まれている。二――七――三。依頼票の裏に浮かんだ縦線と、同じ並びだった。
「それは、どこに置かれていたんです」
「エルンストの工房です」
「最初から?」
「そう思いますが」
「あなたは、何度ここへ来たんですか」
ザムエルは朔を見た。柔らかな顔のまま、目だけが少し細くなる。
「何度、というのは難しい質問ですね。荷物を届けた回数なら記録があります。立ち寄った回数まで数える人はいないでしょう」
「あなたは数えていた」
「私は運送業者です。荷物の数なら覚えます」
「人の出入りも?」
「それは、あなたのほうが得意なのではありませんか」
言葉が返されるたび、会話の中心が少しずつずれていく。朔はそのずれを追わなかった。追えば、ザムエルの作った順番に乗せられる。
彼は帳面へ手を伸ばした。
ザムエルが先に手を置いた。
「それは、まだ見ないほうがいい」
「なぜです」
「古い記録です。読めば、余計なことを思い出すかもしれない」
「思い出すことが、余計なんですか」
「人によります」
朔はザムエルの指先を見た。爪の脇に黒い汚れがある。油ではない。乾いたインクだ。しかも、親指だけが濃い。帳面をめくった跡ではなく、印章を押したあとに拭い切れていない色だった。
「その帳面、今夜持ってきたものではないですね」
ザムエルの表情は変わらなかった。
「なぜそう思うのです」
「表紙が濡れていない」
「鞄に入れていましたから」
「鞄の底には泥が付いている。でも帳面の角には付いていない。外から持ち込んだのではなく、工房のどこかに隠していた」
沈黙が落ちた。
遠くで鐘が鳴り始める。
一音目が響き、二音目が続く。三音目のあと、わずかな間があった。朔は数えた。四音目は、予定より二拍遅れた。
ザムエルが懐中時計へ目を向ける。
その瞬間、朔は帳面を引いた。
革の表紙が開き、中から薄い紙片が滑り落ちた。紙は床に落ちる前に、マリーの手袋をした指に受け止められた。
そこには、日付が一つだけ書かれていた。
未来日付の依頼票より、さらに先の日付。
そして、その下にエルンストの筆跡で、短い言葉が残されていた。
――二七三は、場所ではない。順番だ。
マリーが顔を上げた。
ザムエルの手が、革鞄の取っ手を強く握っていた。
鐘の最後の音が、霧鐘町の屋根を越えて消えていく。
朔は、依頼票の裏に浮かんだ三本の線を思い出した。場所を示していると思った。だが違った。あれは、三つの出来事が並ぶ順番だった。
まだ来ていない日付は、未来を示していたのではない。
過去の順番を、誰かが入れ替えた証拠だった。
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