第6話 屋上扉の前で

その夕方、白石奈緒は最後まで編集局に残った。
窓の外では雨が上がったあとも、駅前の工事現場が白い照明を点けたまま動いていた。仮囲いの向こうで重機が低く唸り、鉄材を置く音が、五階まで鈍く伝わってくる。編集局の中では、輪転機の振動、印刷所へかける電話、経理部の電卓を叩く音が、互いに干渉しながら途切れず続いていた。
締切前の職場は、静かなのに忙しい。
誰も大声を出さない。必要な言葉だけが短く交わされ、紙束が机から机へ渡される。その流れの中にいる限り、三浦遼の死も一つの処理項目へ変わってしまうようだった。遺族への連絡、現場写真の確認、警察への資料提出。どれも必要な仕事で、必要であるがゆえに、三浦のいない机だけが余計なものに見えてくる。
奈緒は、三浦の古い紙ファイルを抱えて資料棚へ向かった。
ファイルの中には、駅前再開発の初期計画や配水塔の改修記録が綴じられている。紙は湿気を吸って少し膨らみ、指先にざらつきを残した。三浦が生きていた頃なら、背表紙のラベルを見ただけで目的の資料を取り出していたはずだ。奈緒はまだ、彼の分類の仕方を完全には覚えていない。だから一冊ずつ確かめるしかなかった。
廊下を曲がったとき、屋上階へ続く扉の前に人影があった。
篠原克己だった。
屋上へ上がる階段の手前で、彼は立入禁止の札を見上げていた。扉は閉まっている。だが、右手には鍵束があり、その中から一本を選ぶように、親指で金属をなぞっていた。
奈緒の足が止まった。
篠原は鍵を取り出したわけではない。扉を開けようとしたわけでもない。ただ、いつもの管理確認のように鍵束へ触れ、一本ずつの重さを確かめていた。
その動作が自然すぎた。
不自然なことをしている人間は、もっと身構える。周囲を見回し、音を聞き、誰かに見られていないか確かめる。篠原はそんな素振りを見せなかった。まるで、ここにいること自体が説明を必要としないように立っている。
「まだ残ってたんですか。無理しないでください」
篠原が振り返った。
奈緒は、彼がいつからこちらに気づいていたのか分からなかった。声は穏やかで、口元には薄い笑みがある。先に声をかけられたことで、奈緒の視線が鍵束に向いていたことまで、すでに場の外へ押し出されたように感じた。
「資料を戻しに来ました」
奈緒はファイルを持ち上げた。
「三浦さんの机にあったものです。屋上の倉庫に関係する資料が混じっていたので」
「そうですか。彼は古い資料をよく調べていましたからね。再開発の記事は、昔の記録を見ないと分からないことも多い」
「屋上の倉庫に、再開発の資料があるんですか」
「いくつかあります。古い配水設備の図面や、ビルの改修記録です。現在の計画とは関係が薄いので、普段は誰も見ませんが」
「三浦さんは、よく見ていた?」
「よく、というほどではありません。ただ、必要になると自分で探す人でした。誰かに頼るより早いと思っていたのでしょう」
篠原はそう言いながら、鍵束をポケットへしまった。
奈緒はその手元を見た。二一七号の鍵がどれかは、もう分かっている。古い真鍮の頭に、白い塗料の剥がれた跡がある。篠原がそれに触れたのかどうかまでは見えなかった。
「屋上扉の鍵、まだ篠原さんが持っているんですか」
「管理は私のところで預かっています。正確には、鍵棚に置いてありますが、最終的な確認は私がします」
「鍵棚に戻す時刻も?」
「必要なら記録します」
「必要なら、というのは?」
篠原は少し笑った。
「毎回、誰が何時に触れたかまで記録していたら、仕事が立ち行きません。編集局は、鍵を動かすたびに申請書を書くような大きな組織ではないんです。普段は互いに分かっている。それで十分に回ってきました」
「三浦さんも、その互いに分かっている中にいたんですね」
「もちろんです」
「では、三浦さんが鍵を持ち出した記録がないことは、持ち出していないことと同じですか」
篠原の表情が、わずかに止まった。
ほんの一瞬だった。けれど奈緒には、紙の上に残る鉛筆の擦れと同じくらいはっきり分かった。篠原は答える前に言葉を整える。いつもなら、その時間は相手に気づかせないほど短い。今は、わずかに長かった。
「同じではありません」
篠原は言った。
「記録がないことは、何も起きていないことの証明にはならない。ただ、記録がない出来事を前提に話を進めるのは危険です」
「三浦さんが屋上へ行ったことは、前提にしていましたよね」
「彼が古い資料を探していたと聞いていますから」
「誰から?」
「本人からです」
「いつですか」
「亡くなる前日の夕方です」
篠原は扉へ視線を戻した。
「彼は、再開発区域の昔の境界線を確認したいと言っていました。屋上の倉庫に、古い図面がある。そう教えたのは私です」
「鍵は渡したんですか」
「いいえ。私が開けました」
奈緒の手の中で、ファイルの背表紙がきしんだ。
「篠原さんが?」
「屋上扉は立入禁止ですから。勝手に入らせるわけにはいきません。私が開けて、三浦くんが資料を探し、戻ってきたところで私が施錠しました」
「そのことは、管理表に?」
「ありません」
「入退館記録にも?」
「屋上へ上がっただけなら、入退館記録には残らないでしょう。あれはビルの外へ出たかどうかを見るものですから」
「でも、篠原さんが外へ出て、戻った記録はあります」
「印刷所との打ち合わせです」
「何時に戻ったんですか」
「正確には覚えていません」
「二十二時二十分では?」
奈緒が言った瞬間、篠原の目が鍵束のしまわれたポケットへ落ちた。
二十二時二十分。
三浦の手帳に書かれていた一行を、奈緒はまだ口にしていない。それでも篠原は、その時刻を知っているかのように反応した。
「……三浦くんが戻ってきたのは、その頃だったかもしれません」
「手帳に、七時二十分と三日間書かれていました」
「見ました」
篠原はすぐに答えた。
「遺品を確認したときに。あれは、本人の作業記録でしょう。三浦くんは重要なことを何度も書き移す癖がありましたから」
「二十二時二十分ではなく、七時二十分です」
「時刻の書き方は、人によって基準が違います。夕方以降を七時、八時と呼ぶ人もいる」
「三浦さんは、二十四時間表記で記録していました」
奈緒の声は、自分が思っていたより硬くなっていた。
「取材先への訪問時刻も、入稿時刻も、二一時、二二時と書いています。七時二十分だけ、書き方が違う理由は何ですか」
篠原は答えなかった。
階段室の窓から差し込んだ夕方の光が、屋上扉の前の床を細長く照らしていた。光の上に、扉の金属枠の影が落ちている。誰かが境界線を引いたように見えた。
「白石さん」
篠原はようやく口を開いた。
「あなたが何を確かめたいのかは、分かっています。三浦くんの一行が、事故の前に何かを知らせようとしていたのではないか。誰かが鍵を持ち、誰かが屋上へ入り、誰かがそのあとに現場へ手を入れたのではないか。そういう順番を考えているのでしょう」
奈緒は返事をしなかった。
篠原の言葉は、彼女がまだ口にしていない考えまで、先に形にしていた。
「ですが、順番を考えるなら、まず前提を揃えた方がいい。三浦くんが屋上へ行ったこと。私が鍵を開けたこと。彼が資料を探していたこと。屋上扉がその後に施錠されたこと。それらは、私が隠している事実ではありません。むしろ、私が説明している事実です」
「説明される前から、私たちが知っていたわけではありません」
「だから説明したんです。情報が欠けていると、想像が入り込む。想像は、善意であっても誰かを傷つけます」
「説明が事実と違っていた場合は?」
「そのときは、訂正します」
「誰が訂正するんですか」
「責任を持つ人間が」
「篠原さんが?」
「必要なら、私が」
穏やかな声だった。だが、その穏やかさの中には、会話を終わらせる力があった。
篠原は、相手の反論を打ち負かすのではない。反論が出てくる前に、責任という大きな言葉で包む。自分が引き受けると言われれば、追及する側は、なお疑い続けることに罪悪感を覚える。
奈緒は、三浦の机にあった付箋束を思い出した。
あとで困るのは時間の方だから。
三浦は、困ることを先に避ける人だった。だからこそ、誰かが説明を整えてしまう前に、手帳へ同じ一行を残したのかもしれない。
「三浦さんの手帳は、篠原さんに見せるために書かれたものではないと思います」
奈緒が言うと、篠原は少しだけ眉を動かした。
「では、誰に?」
「まだ分かりません」
「分からないものを、誰かへの警告だと考えるのは危険では?」
「危険でも、確認する価値はあります」
「なぜです」
「三日間、同じ文が残っているからです。三浦さんは、同じことを何度も書く人でした。でも、何度も書くときは、同じ意味を繰り返していたのではなく、同じ順序を固定していました。紙面の修正でも、取材メモでも、順番を変えられることを嫌がっていた」
奈緒はファイルを抱え直した。
「篠原さんが説明した順番は、三浦さんが残した順番と少し違います」
「どこがですか」
「篠原さんは、三浦さんが資料を探したことを最初に話しました。でも、手帳に残っているのは資料の名前ではなく、鍵が戻る時刻です。三浦さんが記録したかったのは、資料ではなく、鍵の移動だったのではないでしょうか」
「それはあなたの解釈です」
「はい」
「解釈で人を疑ってはいけません」
「だから、記録を見ています」
奈緒はそう言ってから、一度だけ息を止めた。いつもなら、緊張すると会話の前に息を止める。けれど今は、その動作さえ篠原に見られている気がした。
「私は篠原さんを犯人だと言っていません。三浦さんの死が事故なのか事件なのかも、まだ決めていません。ただ、屋上の鍵を誰が持ち、いつ戻し、誰がそのあと現場を見たのかを、記録で確かめたいんです」
篠原はしばらく奈緒を見ていた。
「記録は、残した人間の意図まで残しません」
「残さないから、並べて読む必要があるんだと思います」
「並べる人間の意図は残りますよ」
「だから、木村さんと確認しています」
篠原は小さく息を吐いた。
その表情に、初めて疲労らしいものが浮かんだ。だがそれは一瞬で、すぐにいつもの管理者の顔へ戻った。
「木村さんは、数字に厳しすぎるところがあります。彼女の仕事には敬意を持っていますが、数字が合わないことと、誰かが悪いことをしたことは同じではない」
「分かっています」
「三浦くんも、そこを混同しない人でした。だから私は、彼に余計なことを言わないようにしていました。彼は一つの違和感を見つけると、自分で抱え込む。誰かに相談すれば済むことまで、紙の上で何日も考える。そんなことをしていれば、いつか心身が持たなくなる」
「篠原さんは、三浦さんが何かに気づいていたと思っていたんですか」
問いを投げたあと、奈緒は自分の心臓が一度だけ強く打ったのを感じた。
篠原はすぐには答えなかった。
「気づいていた、というより、気にしていたのでしょう。三浦くんは、何でも丁寧に扱う人でしたから」
「何を?」
「古い資料です。過去の紙面に数字の違いがある。再開発計画の初期資料と、現在の発表内容が一致しない。そういうことを気にしていた」
「それは、紙面の誤りですか」
「誤りとは限りません。計画が変わっただけかもしれない。行政の資料は更新されます。過去の数字と現在の数字が違うからといって、どちらかが間違っているとは限らない」
「でも、三浦さんは屋上の資料を見ていた」
「見ていたのでしょう」
「そして、手帳に鍵のことを書いた」
「そうかもしれません」
篠原は、そこまで言うと扉の札へ目を向けた。
「白石さん。仕事というものは、全部を表に出せば正しくなるわけではありません。確認のために資料を集め、整理し、必要な部分を残す。その途中で、扱いを誤れば、関係のない人まで巻き込む。私はそれを何度も見てきました」
「関係のない人を守るために、関係のある事実まで隠すことは?」
「隠すのではありません。順番を選ぶんです」
「その順番を選ぶ人が、当事者だったら?」
篠原は黙った。
階段室のどこかで、配管が小さく鳴った。古い建物が、内部に溜めた水をゆっくり動かしているような音だった。
奈緒は、扉の取っ手に視線を移した。金属の表面に、薄い洗剤の匂いが残っている。誰かが最近、拭いたのだろうか。指紋を消すためか、単に汚れを取るためか。どちらとも決められない。だが、扉は以前よりきれいになっていた。
「この扉、誰かが拭きましたか」
「清掃担当が入ったのかもしれません」
「立入禁止なのに?」
「扉の外側は、廊下です。清掃が入ることはあります」
「いつですか」
「そこまでは覚えていません」
「記録は?」
「清掃記録まで私が把握しているわけではありません」
篠原の答えは自然だった。すべてを知っているわけではないという態度も、信頼を保つためには有効なのだろう。何でも知っている人間は不自然だが、必要なことだけを知っている人間は頼りになる。
奈緒は、その頼もしさが一枚ずつ積み重なって、疑いの視界を塞いでいることに気づいた。
「篠原さんは、三浦さんの死を事故だと思っていますか」
「現時点では、そう考えるのが妥当でしょう」
「妥当というのは、事実ですか」
「事故の可能性が高いという意味です」
「でも、事故だとは断定しない」
「警察がまだ確認中ですから」

「なら、編集局の中で『事故』と呼ばれているのはなぜですか」
篠原の目が、初めて奈緒から外れた。
「誰かが死んだあと、周囲が何も呼ばずにいることは難しい。人は、名前のないものを怖がります。事故と呼ぶことで、少なくとも今は仕事を続けられる」
「呼び方が、事実を決めることもあります」
「ええ。だから、責任のある人間が呼び方を選ぶ必要がある」
「篠原さんが?」
「編集局次長として、必要な範囲で」
篠原は鍵束をポケットの上から押さえた。
「私は、三浦くんの死を軽く扱っているわけではありません。だからこそ、無責任な憶測から彼を守りたい。彼が何かを隠していた、誰かに追い詰められていた、会社が何かを揉み消そうとしている。そういう話は、証拠がなければ三浦くんの死を別の噂へ変えるだけです。亡くなった人間は、反論できません。だから、生きている側が余計な物語を与えないようにする責任がある」
奈緒はその言葉を聞きながら、三浦の手帳を思った。
三浦は、物語を残したのではない。物語にされないよう、数字と順序だけを残したのだ。誰かの善意や悪意という説明に包まれる前に、鍵が戻るという一行だけを置いた。
「三浦さんは、噂から自分を守るために書いたのではないと思います」
奈緒が言った。
「なら、何のために?」
「誰かが、噂ではなく記録として読めるように」
篠原は、奈緒を見た。
その目に怒りはなかった。だが、柔らかさもなかった。扉の鍵穴のように、暗く、内部を見せない目だった。
「それが白石さんであると?」
「分かりません」
「分からないのに、そこまで踏み込む」
「分からないからです」
篠原はしばらく黙っていた。それから、鍵束を取り出し、二一七号の鍵を指先で持ち上げた。
「この鍵は、三浦くんが戻したものです」
奈緒の視線が鍵へ吸い寄せられた。
「どうして分かるんですか」
「戻ってきたとき、彼が私に返したからです」
「いつ?」
「二十二時二十分頃です」
「その時刻を、どうして正確に?」
「さきほど白石さんが言ったからではありません。彼が戻ってきたとき、編集局の時計が二十二時二十分を指していた。私は覚えています」
「手帳の『七時二十分』を見たとき、そのことを思い出したんですか」
「そうかもしれません」
「では、なぜ最初に否定したんですか」
篠原は鍵を見つめた。
「否定したつもりはありません。心当たりがないと言っただけです」
「それは、同じことでは?」
「違います。手帳に書かれた一行が、私の記憶を指しているとは限らない。だから、すぐに結びつけなかった」
篠原の説明は、言葉の意味を一つずつ狭めていく。否定していない。記憶を指しているとは限らない。鍵を開けたが、貸してはいない。何も間違ってはいないのに、重要な部分だけが手の届かない場所へ移されていく。
奈緒はそのとき、三浦が篠原を恐れていたのではなく、篠原の説明の上手さを知っていたのではないかと思った。
大声を出す人間なら、周囲も警戒する。だが、篠原は声を荒らげず、相手の言葉を否定せず、意味だけを少しずつ変えていく。
「三浦さんは、その鍵を返したあと、どこへ行ったんですか」
「自分の机へ戻ったと思います」
「思います?」
「正確には見ていません。私も紙面の確認がありましたから」
「篠原さんは、鍵だけを受け取った」
「はい」
「三浦さんが屋上で何をしていたかは、見ていない」
「資料を探していたのでしょう」
「何を持って戻ってきたかは?」
篠原は答えなかった。
それは、初めて明確な空白だった。
奈緒はファイルを抱えたまま、その空白を見つめた。篠原の説明は、三浦が屋上へ行った理由と、鍵を返した時刻については整っている。けれど、三浦が何を持って戻り、どこへ置き、何を見たのかについては、何もない。
何もないのではなく、篠原が語らないだけかもしれない。
その違いが、奈緒の中で形を持ちはじめた。
「その夜、三浦さんが何か紙を持っていたのを見ませんでしたか」
「覚えていません」
「紙の束を?」
「覚えていません」
「封筒は?」
「白石さん、私は何度も言っていますが、数日前の夜のことです。すべての動作を記憶しているわけではありません」
声は穏やかだった。
それでも、篠原の語尾に初めて硬いものが混じった。奈緒はそれを聞き逃さなかった。
「はい。だから、記録で確認したいんです」
「その記録がない」
「ないのか、見せられていないのかは、まだ分かりません」
言ったあと、奈緒は自分の言葉が一歩踏み込みすぎたと感じた。篠原の顔から、穏やかな表情が完全に消えたわけではない。ただ、その表情が本人のものではなく、職場に置かれた仮面のように見えた。
篠原は鍵をしまった。
「白石さん。あなたが三浦くんを大切に思っていることは分かります。彼に助けてもらったから、何か返したいのでしょう。ですが、恩義は捜査の根拠にはなりません。三浦くんの死を、自分が意味のあるものにしようとしないでください」
胸の奥に、冷たいものが沈んだ。
それは奈緒自身が、密かに恐れていたことだった。三浦に助けてもらった恩を、死の真相を探す理由に変えているだけではないか。自分が見つけた一行に意味を与え、そこから事件を作ろうとしているのではないか。
「そうかもしれません」
奈緒は言った。
「私が、三浦さんの死を意味のあるものにしたいだけかもしれません。でも、意味がないことと、確認しなくていいことは同じではありません」
篠原は黙っていた。
「事故なら、記録が事故を示すはずです。鍵を誰が持ったか、いつ戻ったか、誰が屋上へ入り、誰が出たか。確認して事故なら、それでいい。三浦さんを疑うためでも、篠原さんを疑うためでもありません。曖昧なまま、誰かの説明だけで終わらせたくないんです」
篠原の目が、奈緒の抱えるファイルへ落ちた。
「その資料を、どこへ戻すつもりですか」
「三浦さんの机へ」
「そこは、もう整理するよう伝えたはずです」
「確認が終わるまでは、動かしません」
「白石さん」
「必要かどうかを決めるのは、確認してからにします」
奈緒の声は大きくなかった。だが、以前なら飲み込んでいた言葉だった。篠原の説明に合わせて、曖昧なまま頷くのではなく、自分で確かめるために立っている。
篠原はしばらく奈緒を見たあと、道を空けた。
「分かりました。あなたがそこまで言うなら、今日のところはそのままにしておきます」
「ありがとうございます」
「ただし、資料を持ち出す場合は、必ず私に声をかけてください。記録が必要ですから」
「記録が必要なら、篠原さんがつけてください」
一瞬、階段室の空気が止まった。
篠原は怒らなかった。むしろ、少しだけ悲しそうに笑った。
「疑われる側というのは、思ったより疲れるものですね」
「疑っているわけではありません」
「ええ。確認しているのでしょう」
その言い方には、奈緒の言葉をそのまま返す冷たさがあった。
「どうぞ、確認してください。確認して、何もなければ、そのときは三浦くんの死を静かに終わらせてあげてください」
篠原は扉の脇を通り過ぎ、階段を下りていった。
足音は一定だった。五階へ向かう足音が遠ざかり、編集局のざわめきへ吸い込まれていく。奈緒はその場に残り、屋上扉を見つめていた。
扉の取っ手には、雨の匂いではない、薄い洗剤の匂いが残っている。
誰かが拭いたのだろう。
ただの清掃かもしれない。
奈緒は扉に触れなかった。触れれば、確かめたいという気持ちが先に立ち、見えたものを都合よく解釈してしまいそうだった。
代わりに、ファイルを開いた。
一番後ろの紙が、上下逆に綴じられている。三浦なら、そんなことはしない。奈緒は紙を抜き、裏側を見た。
鉛筆で、短い数字が書かれていた。
二一七 二二二〇
奈緒の指先が止まる。
屋上扉の鍵番号と、鍵が戻った時刻。
その下には、三浦の筆跡で、薄く消された一行があった。
七時二十分、鍵は戻る。
奈緒は、三つの数字を方眼ノートへ書き写した。
二一七。 二二二〇。 七時二十分。
まだ、意味は一つに結ばれない。だが、篠原は二十二時二十分を知っていた。三浦が鍵を返したことも知っていた。しかも、最初からそれを語らず、奈緒が時刻を口にしたあとで記憶として差し出した。
その順番が、何よりも重かった。
奈緒は階段を下りた。
古い踏み板が、一段ごとに違う音を返す。窓の外では、駅前のクレーンが夕暮れの空をゆっくり切り分けていた。鉄骨の影が、濡れたガラスの上を滑っていく。奈緒はその影の中を歩きながら、自分の中で何かが変わったのを感じていた。
篠原を信じられなくなったわけではない。
信じることだけでは、もう足りなくなったのだ。
編集局へ戻ると、木村が自分の机で校閲紙をめくっていた。奈緒の顔を見ると、何も尋ねず、机の右端に紙コップを置いた。無香料の茶だった。少し冷めている。
「屋上、どうだった?」
奈緒は紙コップを手に取った。
「篠原さんが、鍵を開けたと言いました」
木村の指が止まる。
「いつ?」
「三浦さんが資料を探すために入ったとき。鍵を返したのは、二十二時二十分頃」
木村は、すぐに紙へ手を伸ばした。方眼ノートを開き、数字を書き込む。
二一七。 二二二〇。
「手帳の七時二十分と、同じ二十分」
「はい」
「篠原さんは、手帳を見たと言った?」
「見たと言いました。でも、最初は心当たりがないと」
「それで、あなたが二十二時二十分と言ったあとに思い出した」
奈緒は頷いた。
木村は赤ペンを握り、数字の横に線を引いた。
「記憶というより、答えを合わせたように見える」
「まだ、そう断定はできません」
「できない。でも、そう見える」
木村は紙の端をそろえた。
「白石さん。ここから先は、篠原さんの説明を聞く前に、記録を取っておいた方がいい」
「入退館記録ですか」
「それだけじゃない。鍵の管理表、印刷所の受け渡し時刻、屋上関連の校閲紙。篠原さんがどの順番で説明したかも書いて」
奈緒は木村を見た。
「人の言葉を、記録するんですか」
「言葉そのものより、前後関係。最初に何を言ったか。何を聞かれてから付け加えたか。校閲では、修正内容より修正の順番を見ることがある」
木村の声は、いつもよりわずかに柔らかかった。
「三浦さんは、それを分かっていたのかもしれない」
奈緒は手帳の写しを開いた。
七時二十分、鍵は戻る。
一行は、昨日までより近くに見えた。恐怖の記録ではない。誰かを告発する大きな言葉でもない。鍵が動き、戻され、扉が閉じた。その順番を、誰かが後から拾えるように残したものだ。
奈緒は赤いボールペンを取り出した。
篠原克己。
名前を書こうとして、手を止める。
まだ、書かない。
代わりに、事実だけを並べた。
屋上扉の鍵番号、二一七。 篠原が鍵を開けた。 三浦が資料を探した。 鍵が戻った時刻、二十二時二十分。 管理表には記録がない。 篠原は、時刻を聞かれるまで語らなかった。
そこまで書いて、奈緒はペンを置いた。
疑いは、相手の名前を書いた瞬間に始まるのではない。見たものを、見なかったことにしないと決めた瞬間に始まる。
編集局の奥で、輪転機が低く唸った。紙が送り出され、印刷され、折られていく。今日も新聞は出る。誰かの死を抱えたまま、町の家々へ配られていく。
奈緒は手帳の写しをファイルケースにしまった。
屋上扉の向こうに何があるのか、まだ分からない。
ただ、鍵を持っていた人間が、鍵の戻った時刻を知っている。
その事実だけが、紙の上で静かに残っていた。
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