第5話 七時二十分の意味

昼休みのチャイムが鳴っても、白石奈緒は席を立たなかった。

編集局の中央にある時計は、秒針だけを律儀に進めている。誰かが弁当の包みを開き、別の誰かが給湯室でカップ麺に湯を注いだ。醤油の匂いが紙とインクの匂いに混じり、輪転機の低い振動が、机の上の手帳をわずかに揺らしている。

奈緒は三浦遼の手帳を何度も開き直していた。

三日分の欄には、同じ一行がある。

七時二十分、鍵は戻る。

手帳の紙は、その一行の手前で何度も折り返されていた。折り目は浅く、けれど同じ位置に重なっている。三浦がページを開くたび、親指を置いた場所だろう。奈緒は折り目を指でなぞった。

文字は変わっていない。

一日目も、二日目も、三日目も、数字の七は同じ高さで、二十分の「二」の払いは同じ角度をしている。予定を書き忘れないためなら、一度で足りる。何度も書く必要があるなら、同じ出来事が繰り返されたのではなく、同じ出来事を確認し直していたことになる。

向かいの席で、木村由衣が冷めた茶を飲んだ。湯気の立たない紙コップを、彼女はいつも左手の範囲に置く。飲み終わっても捨てず、最後まで机の端から動かさない。

「時刻としては、普通すぎる」

木村は手帳の写しを見ながら言った。

「七時二十分なんて、待ち合わせにも、入稿にも、鍵の返却にも使える。だから意味がないように見える。でも、普通すぎるからこそ逆に目立つ」

「三浦さんなら、時刻だけを書くときにも、何か別の手がかりを残すはずです」

「場所か、相手か、物の名前を一つは書く。そういう人だった」

木村は赤ペンを指先で回した。ペン先が紙面に触れそうになるたび、寸前で止まる。

「だから、この文は予定じゃなくて、記録だと思う。これから起きることではなく、起きたことを、あとから確認するための文」

奈緒は頷いた。

「鍵が戻る、ではなく、鍵を戻した」

「文法の話?」

「いえ。動作の話です。鍵が勝手に戻るわけではない。誰かが持っていて、誰かが返す。三浦さんは、その順番を見ていた」

「なら、三浦さんは鍵の受け渡しを知っていたことになる」

木村の声は淡々としていた。

「篠原さんが、鍵を開けたと言っていました」

「その説明は、昨日聞いた」

「管理表には記録がない」

「入退館記録にも、屋上へ行ったことは残らない」

「でも、手帳には残っている」

木村はそこで初めて、奈緒の目を見た。

「手帳の一行だけで、誰かを特定することはできない」

「分かっています」

「本当に?」

奈緒は返事をしなかった。

篠原の名前を方眼ノートに書こうとして、何度も筆を止めている。書けば、疑いが形になる。形になった疑いは、消しにくい。奈緒は、以前の職場で人の善意を信じた結果、確認を後回しにしたことがあった。大丈夫だと言われ、そうだと思い、後から自分だけが見落としに気づいた。誰も悪意を持っていなかった。だからこそ、責任の行き場がなかった。

人を疑うことは、相手を悪者にすることではない。

だが、疑われた人間の側から見れば、その二つはほとんど同じなのかもしれない。

「三浦さんが、前に私へ付箋をくれたことがあります」

奈緒は言った。

木村は何も挟まず、続きを待った。

「入ったばかりの頃、紙面の修正を一箇所見落として、先輩に強く叱られました。修正前のゲラを捨ててしまって、どこを間違えたのか自分でも分からなくなって。三浦さんが、机の隅に付箋を置いてくれたんです」

「何と?」

「『あとで困るのは時間の方だから』と。付箋には何も書いてありませんでした。自分で必要なことを書け、という意味だったと思います」

奈緒は、手帳のページを押さえた。

「そのあと、私が紙を全部見直していると、三浦さんが言いました。『一度見たものを、もう一度見るのは無駄じゃない。ただ、同じ場所だけ見続けると、周りが見えなくなる』って」

「三浦さんらしい」

「私は、あの人が人を疑うところを見たことがありません」

「疑わなかった?」

「いえ。疑っても、それを人に向ける前に、紙へ戻していたんだと思います」

木村は紙コップを持ち上げ、冷めた茶を一口飲んだ。

「だから手帳に書いた」

「はい。言葉で言えば、誰かに聞かれる。聞かれれば、説明を求められる。説明を求められれば、相手の都合のいい順番に直される。三浦さんは、それを知っていたのかもしれません」

木村は赤ペンのキャップを閉めた。

「あなたは、篠原さんが説明を直していると思っている?」

奈緒は、机の上に散らばった数字を見た。

二一時十二分。 二一時十六分。 二一時十八分。 二二時十九分。 二二時三十七分。 二二時四十一分。

紙の上に並ぶ時刻は、声を持たない。だからこそ、誰かが話しているときより冷静でいられた。

「篠原さんは、三浦さんが屋上へ行った理由を、藤堂さんが聞く前に説明しました。古い再開発資料を探していた、と」

「その説明が正しい可能性もある」

「はい」

「三浦さんが実際に資料を探していた可能性もある」

「はい」

「それでも、時刻を確認する?」

「確認します」

奈緒はそう言ってから、自分の声が以前より固くなっていることに気づいた。人を信じたいという気持ちがなくなったわけではない。信じたまま、確かめることができるのか。それを試しているのだ。

木村は、校閲紙の束から一枚を抜いた。

「七時二十分について、別の記録があるかもしれない」

「どこに?」

「入退館記録ではなく、印刷所の搬入表。前夜の版が確定した時刻は二十二時二十分。手帳の『七時二十分』が、単純な時刻ではなく、鍵番号と組み合わされた表現なら、二一七という数字の近くに別の意味がある」

奈緒は眉を寄せた。

「七時二十分と二一七を組み合わせる?」

「三浦さんは、数字を省略する癖があった。取材先の電話番号も、同じ紙の上に書かれているときは市外局番を省く。場所が分かっているから、必要な部分だけを残す」

「七時二十分も、省略された時刻かもしれない」

「そう。二十二時二十分なのか、七時二十分なのか。三浦さんが何を基準にしていたかを見ないと分からない」

奈緒は手帳をめくった。七時二十分と書かれた三日間の前後には、ほかの予定がほとんどない。取材先の名も、作業の内容もない。だが、三日目の欄の端に、細い鉛筆の跡があった。

数字の七を囲むような、途中で消えた線。

奈緒はそれを、窓から差す光に傾けて見た。

「木村さん、これ……」

「囲もうとした跡ね」

「一行全体ではなく、七だけを?」

「消したのか、書き直したのか。紙の凹みは残ってる」

木村は自分の赤ペンではなく、奈緒の赤いボールペンを手に取った。ペン先を寝かせ、紙の表面をゆっくりなぞる。赤い線が文字を汚さないよう、筆圧を極端に弱めている。

浮かび上がったのは、七の横にある小さな点だった。

「これ、時刻の七じゃないかもしれない」

「曜日ですか」

「鍵の管理表にある番号の一部。三浦さんは、数字を縦に並べて書くことがあるでしょう」

奈緒は自分の方眼ノートを開き、三浦の筆跡を写した。

七時二十分、鍵は戻る。

その一行を、横書きの文章ではなく、記号の列として見る。

七。二。二〇。鍵。戻る。

木村はしばらく黙ってから、手帳を閉じた。

「まだ早い」

「はい」

「でも、これは少なくとも、恐怖の言葉ではない。恐怖なら、同じ形を保つことに意味はない。確認したい対象があるから、同じ形で残した」

奈緒は手帳の表紙を撫でた。黒い革の表面は、三浦が何度も指で触れた場所だけ少し艶が出ている。

昼休みが終わり、編集局の空気が再び動き始めた。電話が鳴り、記者が戻り、コピー機から熱を含んだ紙が吐き出される。誰かが奈緒の肩越しに手を伸ばし、机の端に置かれた付箋束を一つ持っていった。

「すみません、これ借ります」

若い記者が言った。

奈緒は反射的に手を伸ばし、付箋束の位置を戻した。

「それ、三浦さんのものです」

「もう使わないでしょう」

悪気のない言葉だった。けれど、奈緒の胸の奥に冷たいものが触れた。人がいなくなった机は、思っていたより早く他人のものになる。付箋一束、ペン一本、空いた椅子。日常は、死者の所有物を実用の中へ戻していく。

「使わないかどうかは、まだ分かりません」

奈緒が言うと、記者は戸惑った顔で手を引いた。

木村が、記者の去った方向を見ながら言った。

「三浦さんも、よく物を人に貸してた」

「はい」

「貸したことを覚えている人より、借りたものを返せなかった人の方が、あとで彼を思い出すのかもしれない」

その言葉に、奈緒は胸の奥がわずかに痛んだ。三浦は誰かを助けたことを、助けたという形で残さなかった。だから、受け取った側が気づかなければ、何もなかったことになる。

手帳の一行も同じだった。

誰かに渡すために書かれたのに、読む側が意味を見つけなければ、ただの奇妙な予定として処理される。

午後、奈緒は三浦の机の引き出しから、古い紙ファイルを取り出した。中には駅前再開発の初期資料が綴じられている。現在の計画では撤去されることになった商店街の位置、配水塔の改修記録、ビルの耐震調査。紙は黄ばんでいたが、三浦は日付順に整えていた。

一番後ろの資料だけ、上下が逆になっている。

奈緒はそれを手に取り、紙の裏を見た。

鉛筆で、短い数字が書かれていた。

二一七 二二二〇

七時二十分ではない。

二一七と、二十二時二十分。

鍵番号と、鍵が戻る時刻。

奈緒の指先が紙の上で止まった。

「木村さん」

木村が顔を上げた。

奈緒は紙を持って、彼女の机へ向かった。途中、編集局の通路を横切る。篠原が電話を終えたところだった。彼は奈緒の手元を見たが、何も尋ねなかった。ただ、持っていた鍵束を一度確かめ、ポケットへ戻した。

その動作が、昨日より近く感じられた。

木村は紙を受け取り、数字を見た。

「二二二〇。二十二時二十分」

「はい」

「手帳には七時二十分と書いてある」

「だから、まだ合いません」

「でも、同じ二十分を指している可能性はある」

「七と二十二。なぜ書き分けたんでしょう」

木村は紙を机に置いた。

「七は、時刻ではなく、日数かもしれない。死の三日前から書き始めた。七時二十分という形を借りて、七番目の記録と二十分の返却時刻を示している?」

「三浦さんは、そんな暗号を作る人でしたか」

「暗号というより、他人に読まれても意味がすぐには分からないようにする書き方はしていた。大きな声で言えないことを、紙の並びに埋める人だった」

奈緒は数字を見つめた。

三日間だけ、同じ文。

七時二十分、鍵は戻る。

もし七が時刻の一部ではなく、鍵番号二一七の最後の数字だとしたら。二一七と二二時二十分が、別々の紙に分けられていたとしたら。三浦は、鍵の番号と返却時刻を、ひとつの文に見せかけて残したのかもしれない。

木村が言った。

「ただし、ここから篠原さんへ直線でつなげないで」

「分かっています」

「鍵を管理していた人間は複数いる。篠原さんが現場を知っていたことも、鍵を持っていたことも、まだ単独では決め手にならない」

「でも、篠原さんは二十二時二十分を知っていました」

「昨日、言い間違えた時刻ね」

「しかも、三浦さんが手帳に書いた一行を見ていたと言った」

木村は一度、黙った。

「それは重要。でも、重要だからこそ、記録で補強しないといけない」

「はい」

「あなたは今、篠原さんを疑っている」

奈緒は窓の外を見た。駅前のクレーンが、雲の底に鉄骨を吊り上げている。古い建物の一部が白い仮囲いに隠れ、残された壁だけが、まだ取り壊されない順番を待っているようだった。

「疑っているというより、篠原さんの説明が、三浦さんの手帳と同じ場所に重なっていると思っています」

「言い方を変えただけでは?」

「違います。疑いなら、相手に理由を求めます。でも、今は紙に理由を求めている」

木村は奈緒を見た。

「それは、少しだけ成長した言い方ね」

「成長?」

「前のあなたなら、篠原さんの表情を見て、それが嘘かどうか考えたでしょう」

奈緒は返事をしなかった。

篠原の表情は、いつも穏やかだった。穏やかであることが信用の根拠になり、信用されていることが、さらに表情を穏やかにする。その循環の中では、疑う側だけが乱れて見える。

「今は、表情より時刻を見ます」

奈緒は言った。

木村は紙の角を揃え、ファイルの中へ戻した。

「なら、次は二十二時二十分に誰がどこにいたか。そこを確認する。入退館記録と、印刷所の受け渡し表。あと、鍵の管理表」

「篠原さんが持っています」

「だから、先に写しを取る」

「見つかったら、怒られますか」

「怒る理由がある人は、たいてい怒る前に別の説明をする」

木村は赤ペンをしまった。

「あなたが見るべきなのは、怒るかどうかじゃない。どの順番で説明するか」

夕方、編集局の窓は薄い橙色に染まった。輪転機の音が一段低くなり、印刷所から届く紙の匂いに、乾いたインクの苦さが混じる。奈緒は古いファイルを抱え、三浦の机へ戻った。

手帳を開き、三日分の一行を見る。

七時二十分、鍵は戻る。

そこに、もう一つの数字を並べる。

二一七。二二二〇。

七は、時刻なのか。鍵番号なのか。それとも、三浦が自分だけに分かる形で、別の記録を束ねた印なのか。

答えはまだ、紙の上で沈黙していた。

けれど、三浦の筆跡に怯えの揺れがないことだけは、確かだった。彼は死の予告を書いたのではない。自分が見た順番を、誰かが後から戻せるように残した。

奈緒は、付箋束の一枚を手に取った。

三浦がかつて彼女に渡したものだった。白い紙の中央に、何も書かれていない。奈緒はそこへ、今日分かったことを書いた。

二一七――屋上扉の鍵番号。 二二二〇――鍵が戻る時刻かもしれない。 七――意味未確定。

最後に、手帳の一行を写した。

七時二十分、鍵は戻る。

書き終えてから、奈緒は付箋を三浦のファイルに戻した。すぐに答えを書き込むのではなく、空白を残しておく。その空白が、次に見るべきものを忘れさせないための場所になる。

木村が遠くから声をかけた。

「白石さん、帰らないの?」

「もう少しだけ」

「食事は?」

「あとで取ります」

木村は小さく息を吐いた。叱る代わりに、机の端へ新しい紙コップを置いた。今度はまだ少しだけ温かい。

「三浦さんなら、あとで困るのは時間だと言うでしょうけど」

「はい」

「時間より先に、あなたが倒れたら意味がない」

奈緒は紙コップを手に取った。温度が掌へ移ってくる。

人を疑うことは孤独だと思っていた。けれど、誰かが同じ紙を見てくれるなら、孤独は完全なものにはならない。木村は奈緒を励ます言葉をほとんど使わない。その代わり、必要な資料を残し、茶を置き、時刻を一緒に確かめてくれる。

奈緒は窓の外へ目を向けた。

駅前の工事現場では、作業員が仮囲いの内側を歩いている。古い建物の壁に取りつけられた照明が、濡れた路面を白く照らしていた。壊されるものは、壊される前に測られ、囲われ、順番をつけられる。整えられた現場は、何が起きたかを語るのではなく、何を残し、何を隠すかを決める。

奈緒は手帳を閉じた。

七時二十分は、死の予告ではない。

鍵を持った者が戻り、扉が閉じられ、誰かがその事実を確認した時刻だ。そこには、鍵を開けた人間と、鍵を戻した人間のあいだにある空白が残っている。

その空白を埋めるために、奈緒は明日、入退館記録をもう一度見る。

人の説明を聞く前に。

紙の順番が、まだ誰にも言い換えられていないうちに。

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