第5話 岸本義彦の膝

岸本義彦の家へ向かう坂道は、駅から離れるほど細くなった。
舗装はされているが、道の中央には雨水が削った浅い溝が残っている。両側の石垣から伸びた夏草が、風のたびに擦れ合い、乾いた音を立てていた。坂の下では夕霧線の列車が走るたび、低い振動が地面を伝わってくる。姿は見えなくても、鉄の車輪が継ぎ目を渡る音だけは、坂の途中まで届いた。
私は歩きながら、ポケットの中の手帳を指で確かめた。
そこには、三枝誠のフィルムから読み取ったものが並んでいる。
車両番号。合図灯。窓辺の影。コマの入れ替わり。事故当日の赤鉛筆の印。そして、岸本義彦という名前。
名前を書いたからといって、そこに人物が現れるわけではない。むしろ名前は、写っていない顔の代わりに置かれた薄い札に近かった。札の裏に何があるのかは、まだ誰にも分からない。
岸本の家は、坂の上の古い住宅地にあった。玄関先の植木はきれいに刈り込まれている。枝の高さも、葉の密度も揃っていた。けれど庭の隅には、使われなくなった植木鉢が一つだけ倒れたままになっていた。中から乾いた土がこぼれ、細い草がその土を割って伸びている。
整えられたものの中に、整えきれないものが残っていた。
呼び鈴を押すと、少ししてから戸が開いた。
岸本は、以前駅で見たときよりも小さく見えた。背は曲がっていない。肩もまだしっかりしている。ただ、身体の周囲に、長い時間をかけて積もった沈黙がまとわりついていた。
「久慈か」
「はい。先日は駅で」
「覚えている」
岸本はそれだけ言い、私を家の中へ通した。
玄関には古い革靴が一足、つま先を揃えて置かれていた。壁際には夕霧線の古い時刻表が額に入れてある。事故の年のものではない。もっと前の、まだ沿線に工場がいくつもあり、通勤客が今より多かった頃の時刻表だった。
居間へ入ると、窓の向こうに廃線跡の草が見えた。かつて線路が通っていた場所は、いまでは細長い空き地になっている。草の間に、黒ずんだ枕木の跡がいくつも残っていた。
岸本は湯を沸かし、濃い茶を淹れた。自分の茶碗には、砂糖を少し多めに入れる。匙を置いたあと、彼は懐中時計を机の上へ置いた。古びた銀色の蓋に、指の跡が幾つも残っている。
私は持参した写真の複写を、机の上に置いた。
「これを見てください」
岸本はすぐには手を伸ばさなかった。茶碗から立つ湯気の向こうで、写真を見つめている。湯気が薄くなり、茶の表面に浮いた油のような光が消えるまで、彼は動かなかった。
やがて、右手を写真の横へ置いた。
膝の上にあった左手が、二度、膝を叩いた。
一度目は軽く、二度目は少し深かった。
「合図灯のところですね」
私が言うと、岸本は写真を裏返した。
「表を見てください」
「裏も記録だ」
「何が書いてありますか」
「何もない」
「だからです」
岸本は裏返した写真を、今度は指先で押さえた。
「写真は、写ったものだけが記録じゃない。誰が何を書かなかったかも、あとで問題になる」
「三枝誠も、そう考えていたんでしょうか」
岸本の喉が一度だけ鳴った。
「三枝は、写真を撮る前に、必ず裏を見る男だった。撮るものの裏側じゃない。写真の裏側だ。何も書かれていないことを確かめてから、表を見る。あれは癖だったのか、用心だったのか、最後まで分からなかった」
「この写真の人物は、岸本さんですか」
岸本は返事をしなかった。
私は写真を裏返したまま、机の上に置いた。表に戻すことを急がなかった。相手が見たくないものを、こちらの都合で見せ続けるのは、確認ではなく追及になる。
「背中の形が似ています。帽子のかぶり方も、肩の幅も。ただ、顔が写っていない以上、断定はできません」
「断定したいのか」
「したいわけではありません。確認したいんです」
「確認して、どうする」
「記録に残します」
岸本は薄く笑った。笑ったというより、口元に乾いた線ができた。
「記録に残したら、何が変わる」
「事故の原因が運転士のミスだと記録されているなら、違う部分を直します」
「原因が違えば、亡くなった人が戻るのか」
「戻りません」
「家族の暮らしが戻るのか。駅の客が戻るのか。祭りの日に人が押し寄せていた町が戻るのか。夕霧線が昔のように走るのか」
「戻りません」
「なら、なぜ掘り返す」
私は写真の端に残った白い余白を見た。
「戻らないからです」
岸本は私を見た。
「戻らないものを、戻らないままにしておく。そのためにも、記録は必要です。事故のあと、都合のいい説明だけが残れば、亡くなった人たちは、誰かの判断ミスを飾るための数字になる。違う部分があるなら、違うまま残さなければいけない」
「記録は、残せば人を救うと思っているのか」
「思っていません」
私は写真を表へ戻した。合図灯の背後に立つ人物は、粒子の荒れた画面の中で、顔のないまま固まっている。
「残った記録が、別の人間を傷つけることもあります。けれど、消された記録は、傷つける相手すら選べない。後から何も知らない人間が、都合のいい理由で誰かを責めることになる。記録がないから、いちばん近くにいた人間へ責任を押しつける。私は、そのほうが危険だと思っています」
岸本は懐中時計の蓋を撫でた。
「若いな」
「よく言われます」
「若い人間は、沈黙を臆病だと思う」
「違いますか」
「現場を知る者が黙るのは、何も知らない人間が口を出すよりましな場合もある」
「では、事故の日に黙ったことは、誰かを守ったんですか」
岸本の指が止まった。
窓の外で風が鳴った。廃線跡の草が一斉に倒れ、少し遅れて起き上がる。遠くで列車が走り、家の床がかすかに震えた。
「守ったつもりだった」
「誰を」
「乗客を。家族を。会社を。町を。自分を。全部だ」
「全部を守る沈黙は、最後には誰も守らない」
岸本は懐中時計を開いた。内部の小さな機械音が、部屋の静けさを細く切っていく。蓋の内側には、煤のような黒い汚れが残っていた。
「列車は、手前で一度止まった」
「運行日誌にはありません」
「ない。消された」
「なぜ止まったんですか」
「合図が出た」
「誰が出した」
岸本は答える前に、窓の外へ視線を向けた。
「合図灯のそばに、人がいた。線路へ出るなという合図だった。灯りは赤かった。列車の速度を落とすには、十分な合図だった」
「それなのに、灯りが消えた」
「次の瞬間にな」
「誰が消したんですか」
「見ていない」
「見ていないのに、保守の人間だと分かるんですか」
岸本は写真の背中を指した。
「立ち方が違う。運転士や駅員は、線路へ出るときに足を開く。車両の揺れを受けるからだ。保守の人間は、線路の状態を見るために、足を半歩だけ引く。あの背中は、そういう立ち方をしている」
「顔は?」
「見ていない」
「本当に?」
岸本の目が、初めて強く私を捉えた。怒りではなかった。記憶を他人の言葉で整えられることへの拒絶だった。
「顔を見ていないと言った。背中なら見た。帽子も、上着も、立ち方も。だが、顔を見ていない以上、誰だったかは言えん」
「三枝誠は、その人物を撮った」
「撮っただろうな。あの男は、写るものを選ばなかった」
「岸本さんは、写真を見て、その人物が誰か分かったんですか」
「分かったから、言わなかった」
「なぜですか」
岸本は懐中時計を閉じた。
「名前を言えば、事故の責任が一人に集まる」
「合図を出したのは、その人でしょう」
「合図を出した人間だけを責めれば、合図が必要になるまで放置した人間は消える。線路の異常を知っていたのは一人じゃない。保守だけじゃない。駅長も、運行を決めた者も、現場の勘を紙に残さなかった者も、みんな知っていた」
「でも、列車を動かしたのは岸本さんです」
「そうだ」
岸本はあっさり認めた。
「だから私は、自分の責任をなくしたいわけじゃない。止めるべきだった。速度を落とせと言われたとき、私は止めるべきだった。根拠がないと言われても、根拠がないこと自体を異常として扱うべきだった」
「なぜ、そうしなかったんですか」
「会社は、その日の最終列車を止めたくなかった。観光客が多い日だった。運休にすれば、翌日の祭りも中止になる。駅長は、保守の確認が済むまで速度を落とせと言った。私は異常を感じていた。感じていたが、列車を止める根拠がなかった」
「根拠は、あったのでは」
「今ならそう言える。だが、あの場では、紙に書かれたものだけが根拠だった。口頭の合図、現場の勘、線路の音。そういうものは、事故が起きるまでは証拠にならない」
岸本は茶碗を両手で包んだ。茶はもう冷めているはずなのに、手を離そうとしない。
「だから私は走らせた。合図灯が消えたあとも。走らせて、事故が起きた。事故のあとで、みんなが紙を作った。最初から異常はなかった。停止もなかった。合図灯も使われていなかった。私が判断を誤った。それだけで済む紙だ」
「それだけでは済まない」
「分かっている」
その声は、初めて揺れた。
「分かっているから、誰にも言えなかった。私が話せば、誰か一人が悪者になる。私が黙れば、私一人の過失になる。どちらを選んでも、亡くなった人の時間は戻らん」
「でも、沈黙は記録を残します。何もなかったという記録を」
岸本は目を伏せた。膝の上に置いた掌が、今度は動かなかった。
「お前は、沈黙が嫌いか」
「嫌いです」
「なぜだ」
「沈黙した人間の代わりに、物が残ってしまうからです。誰も説明しないまま、写真や紙や傷だけが説明を続ける。見つけた人間が、それをまた黙らせたら、二度と誰も確かめられない」
「物が説明するか」
「説明しません。だから、並べます。写真と、運行記録と、証言を。ひとつだけでは分からないものも、並べれば違いが見える」
「違いが見えたら、誰かを裁くことになる」
「裁くのは私ではありません」
「では、誰だ」
「後から知る人間です。だから、裁く材料まで都合よく整えられていてはいけない」
岸本はしばらく黙っていた。やがて、窓の外へ顔を向けたまま言った。
「三枝も、同じことを言った」
「事故のあとに?」
「事故の前だ」
私は手帳を開いたが、すぐには書かなかった。岸本の言葉を急いで紙に移すと、こちらの都合で意味を固定してしまう気がした。
「合図灯の近くで会った。あいつはカメラを持っていた。私に、見たものを見なかったことにするなと言った」
「三枝さんは、そのとき何を撮ったんですか」
岸本は懐中時計を差し出した。
「これを持っていた。運転席の窓を開けて、合図灯のそばまで行った。戻ってきたとき、手が煤で汚れていた」
私は時計を受け取らなかった。蓋の内側の黒い汚れを、机越しに見つめる。
「合図灯に触れた?」
「たぶん。あいつは、触らないと分からないことがあると言っていた」
「何を確かめたんですか」
「灯りの向きだ。合図灯は、列車から見えるように置かれていた。だが事故後の写真では、線路脇の奥へ向いていることになっていた」
「向きを変えられていた」
「そうかもしれん。あいつは、灯器の蓋を開けた。中を見ていた。煤がついたのは、そのときだろう」
「そのことを、警察には?」
岸本は目を閉じた。
「言わなかった」
「なぜ」
「言えば、三枝の写真が証拠になる。写真が証拠になれば、あいつも巻き込まれる。会社と警察が、あいつの店へ来る。娘の透子も、事故の中へ引きずり込まれる」
「守ったつもりだった」
「そうだ」
岸本の声が、さきほどの自分の言葉をなぞった。
「だが、守ったのは透子ではなく、私のほうだったのかもしれん。あいつに証言させれば、私も話さなければならなくなる。あいつが黙れば、私も黙っていられる。そうやって、何年も経った」
私は岸本の手元を見た。運転時代の癖なのか、指が一定の間隔で机を叩いている。車輪の継ぎ目を数えるような動きだった。
「三枝さんは、写真を現像したら誰かに渡すと言っていませんでしたか」
「言っていた」
「誰にですか」
岸本は首を横に振った。
「そこまでは聞かなかった。聞けば、私も答えなければならなくなる」
「それでも、写真は残った」
「残った。残ってしまった」
岸本は写真へ視線を落とした。
「三枝は、現像しなかった。あいつが何を考えていたのか、私には分からん。見せるために現像しなかったのか、見せる相手を決められなかったのか。だが、あの男が何も考えずにフィルムをしまうことはない」
「透子さんは、父親が逃げたのだと思っています」
「違う」
岸本は初めて、はっきりと言った。
「三枝は逃げるのが嫌いだった。だから、あいつは最後まで自分で現像できなかったんじゃない。現像したものを、誰に渡すか決められなかったんだ」
その言葉は、私の中に残っていた焼けたフィルムの端と重なった。
現像しなかったのではなく、現像したものを渡せなかった。
写真に写るものだけでなく、写真を誰に渡すかまでが、記録の一部になる。
私は立ち上がった。
岸本は玄関まで見送りに出た。戸を開けると、夕方の光が坂道へ斜めに差し込んでいた。廃線跡の草が金色に縁取られ、その向こうで、古い枕木の跡が白く浮かんでいる。
「岸本さん」
振り返ると、岸本は玄関の柱に手を置いたまま、駅のほうを見ていた。
「合図灯のそばにいた人物は、事故の直接の原因ではないんですね」
岸本はしばらく黙った。
「原因という言葉は、便利すぎる」
「どういう意味ですか」
「ひとつに決めれば、そこから先を調べなくて済む。故障なら故障。運転ミスなら運転ミス。人間なら人間。だが、事故は一つの手で起きるとは限らん。止めるべき者が止めず、書くべき者が書かず、見た者が黙る。そういうものが重なって、最後に列車が壊れる」
「では、あの人物は何をしたんですか」
「危険を知っていた。合図を出した。それから、合図を消した。なぜ消したのかは、私には分からん。保守作業を続けるためだったのか、会社の指示だったのか、事故が起きるとは思っていなかったのか。ただ、あのとき誰かが、危険を知らせる手を引っ込めた」
岸本は懐中時計を握った。
「私も同じだ。止める手を引っ込めた」
「記録は、岸本さん一人の判断にしている」
「だから、違うと言いたいのか」
「違うものを、違うままにしたいんです」
岸本は私を見た。老いた顔の中で、目だけが運転席にいた頃の硬さを残している。
「お前は、記録で人を救えると思っているわけではない」
「はい」
「なら、何のためにやる」
「何もなかったことにされるのを、止めるためです」
岸本はすぐには答えなかった。
「三枝の娘に、そう伝えておけ」
「何をですか」
「父親は、逃げたんじゃない。渡す相手を探していた。見つからなかっただけだ」
その言葉を最後に、岸本は玄関の戸を閉めた。
私は坂を下った。
西へ傾いた光が、廃線跡の草を一本ずつ明るくし、同時にその根元を深く黒くしていた。明るい場所だけを見れば、線路の跡はもう消えているように見える。だが、足元には枕木の四角い沈みが続いている。消えたものは、消えた形のまま残る。
坂を下りきる頃、駅から列車の音が聞こえた。
私は立ち止まり、車輪が継ぎ目を渡る回数を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。音は一定の間隔で近づき、やがて遠ざかった。
ポケットから手帳を出し、岸本の言葉を書き留める。
合図灯は使われていた。 列車は手前で一度止まった。 危険を知っていた者がいた。 記録には、その停車がない。 岸本は、誰かを庇うために黙った。 だが、その沈黙は同時に、自分を守っていた。
最後に、少し離して一行を書いた。
「止めるべきだった、という言葉は、運転士だけのものではない」
駅へ戻ると、夕霧線の最終列車が発車を待っていた。ホームの照明が一本ずつ点き、古い駅舎の窓に白い光が並んでいる。観光客の姿はもう少なく、慰霊碑の花だけが、暗くなる前の色を保っていた。
私は合図灯のほうを見た。
遠くからでは、ただの錆びた金属にしか見えない。けれど、そこには誰かが立ち、灯りを掲げ、そして消した。三枝誠は、その動きを写真に残した。岸本は、その人物を知りながら黙った。運行記録は、止まった時間をなかったことにした。
列車が動き出す。
車輪が継ぎ目を渡るたび、規則正しい音が暗い線路へ伸びていった。その音の中に、事故の日の停車が一度だけ混じっているように聞こえた。
私は動き出した列車を見送りながら、手帳を閉じた。
測ったのは、距離だけではなかった。
人が見える場所と、見えない場所。 止められる時間と、止められない時間。 言葉を口にする前に、膝を二度叩いた男の沈黙。
その境目に、三枝誠が残した影が立っている。
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