第2話 畳まれた布巾

月舟堂を出てから、私はすぐには理沙の家へ向かわなかった。
雨は上がっていたが、路地の軒先から落ちる雫がまだ歩道を濡らしていた。看板の文字が水たまりの中で崩れ、通り過ぎる車のタイヤに踏まれるたび、赤や青の光が細かく裂けた。私は鞄の中の手帳を意識しながら、普段より遅い歩幅で街区を抜けた。
手帳は、古いノートに挟んである。角を傷めないためだった。
そう考えた直後、自分が久瀬と同じように、物を置く順番に神経を使っていることに気づいた。久瀬の癖を覚えているだけだと思っていた。だが、五年という時間の中で、私は知らないうちに彼のやり方を引き受けていたのかもしれない。
それが、少し気味悪かった。
理沙の家は、雨雲書房街区の外れにある。駅から遠く、再開発区域にもかろうじて含まれていない古い住宅地だった。狭い道の両側に、同じような木造家屋が並んでいる。雨上がりの壁は濃く湿り、軒下には新聞を丸めたものや、使い古しの傘が立てかけられていた。
私は門の前で一度、鞄の中身を確かめた。
久瀬の手帳。現場メモの複写。私の古い調査ノート。
手帳をそのまま渡すつもりはなかった。理沙に見せるべきだとは思っていたが、何を見せ、何を伏せるかは決めていなかった。そんな状態で訪ねること自体、理沙の生活へ土足で入り込む行為に思えた。
それでも、戻る理由はなかった。
呼び鈴を押すと、家の奥で何かが触れ合う音がした。金属の鍋か、食器か。少しして、理沙が戸を開けた。
「佐伯さん」
「急にすみません」
「いえ。来ると思っていました」
理沙はそう言って、私の顔ではなく靴を見た。泥の残り具合を確かめるような目だった。
「月舟堂からですか」
「そうです」
「手帳を持っているんですね」
問いではなかった。私は返事をせず、靴を脱いだ。
玄関には、薄い布のマットが敷かれていた。靴は左から順に揃えられ、理沙のものらしい黒い靴だけが少し奥へ下がっている。私は自分の靴を並べた。右足の先がわずかに外へ向いた。
理沙はそれを見て、何も言わずに直した。
「上がってください。食事の途中でした」
家の中には、煮干しと大根の出汁の匂いがあった。湯気の気配が廊下まで残っている。だが、私が手帳を鞄から出すと、匂いが急に遠のいたように感じた。鼻の奥にあったものが引き、代わりに冷えた木材と洗剤の匂いが浮かび上がる。
理沙は台所で布巾を畳んでいた。
白い布を二つに折り、さらに半分に折る。角が少しずれると、最初からやり直す。折り目を指の腹で押さえ、皿を拭き、また別の布巾を手に取った。
「久瀬さんのことで来ました」
私が言うと、理沙の肩が止まった。
止まったのは一瞬だった。だが、次の動作が明らかに遅れた。布巾を畳む手が宙に残り、理沙はそのまま布の端を見つめている。
「兄の名前を、今ここで聞くとは思いませんでした」
「五年も経っていますから」
「五年経ったから、聞かないと思ったんです」
理沙は布巾の角を合わせた。合わせてから、またほどいた。
「兄のことは、もう終わった話だと、みなさん考えているのでしょう」
「私はそうは考えていません」
「佐伯さんは、昔からそうでしたね」
声は穏やかだった。だから、その中に含まれているものがわかりにくかった。責めているのか、諦めているのか。それとも、私が何かを言い出すまで待っているのか。
私は居間の低い机に鞄を置いた。
「手帳が見つかりました」
理沙はすぐには振り向かなかった。
「兄の手帳です」
「どこで?」
「月舟堂で」
「古本屋に?」
「棚に置かれていました。売り物として入った記録はありません。白石さんは、誰かが意図して置いたものだと見ています」
理沙は布巾を置き、鍋の蓋を確かめた。火はもう消えている。それでも蓋を持ち上げ、湯気のない鍋の中を覗いた。
「月舟堂というお店は、兄が行っていたところですか」
「何度か見かけたことがあります。古書の余白にある書き込みを読むために」
「本を読むためではなく?」
「久瀬は、本の本文より、誰かが端に残した一行を信じていました」
理沙は鍋の蓋を戻した。陶器と金属が触れ、乾いた音がした。
「兄らしいですね」
その声には、笑いに近いものがあった。けれど、口元は動いていなかった。
「手帳を見せてもらえますか」
私は鞄を開いた。
手帳を出す前に、理沙は私の指先を見た。どこを持ったのか、表紙に触れたのか、頁をどれだけめくったのか。彼女の視線は、手帳そのものより私の扱い方を追っていた。
「ずいぶん触りましたか」
「必要な頁だけです」
「必要かどうかを決めたのは、佐伯さんですね」
「そうです」
「兄の物なのに?」
私は答えなかった。
理沙はその沈黙を待ってから、低い声で続けた。
「兄がいなくなったあと、警察の方が何人か来ました。家の中を見て、机の引き出しを開けて、古い封筒を持っていきました。返ってきたものもあります。返ってこなかったものもあります。返ってきたものは、元の場所に戻されていましたが、置き方が違っていた。兄は封筒を縦に入れる人でした。警察の方は横に重ねた。たったそれだけのことです。でも、私はその違いを見て、兄がもう帰ってこないのだとわかりました」
理沙は手帳ではなく、私のノートを見ていた。
「だから、誰がどれだけ触ったかが気になるんです。触った人間は、必ず物の置き方を変える。変えたつもりがなくても、変わるんです」
私は手帳を机の中央へ置いた。
表紙は照明を吸い、濃紺の布地がほとんど黒く見えた。理沙はしばらく手を伸ばさなかった。写真や封筒を扱うときのように、まず紙の周囲の空気を確かめているようだった。
「新品みたいですね」
「紙も、インクも不自然です」
「兄は、手帳を新品のまま使う人ではありませんでした。表紙が傷んでも、紙が湿っても、使えるならそのまま使う。新しいものを買っても、古い手帳の余白が残っているうちは捨てなかった」
「この手帳は、失踪した当時のものです」
「そうでしょうね」
理沙はようやく表紙に指を触れた。
指先が一度止まる。
久瀬と同じだった。
紙へ触れる前に、必ず一度止める。書く前の癖だと思っていたが、触れるときにもそうするらしい。
「兄の字です」
「最後の一文も?」
私は最後の頁を開いた。
理沙はそこへ顔を近づけた。紙に鼻を寄せるほどではないが、匂いを確かめるように息を浅く吸った。文字の線を指でなぞることはしなかった。
「ここで終わりにしろ。棚に戻せ」
理沙は声に出して読んだ。
「兄の字に似ています」
「似ているだけですか」
「あなたは、同じだと言いたいんでしょう」
「断定はできません」
「断定できないことを、あなたは嫌うのでは?」
その言い方は、白石とよく似ていた。私は眼鏡を外し、意味もなくレンズを拭いた。
「嫌います。だから、違う可能性も残している」
「兄は、そういう言い方を嫌っていました。わからないことを、わからないままにしておくのが嫌いだった。なのに、自分のことになると、わからないものを人に残していく」
理沙は頁を閉じた。
「兄は、私に何か言っていましたか」
「失踪する前に?」
「いつでもいいです。何か、妙なことを。いつもと違う言葉を。私は兄と暮らしていたわけではありませんから、変化があっても気づけなかったかもしれない。でも、佐伯さんは一緒に調べていたのでしょう」
「調べていました」
「何を?」
「倉庫街の出入り記録です。警察が発表した時刻と、実際の搬出時刻が合わなかった」
「それだけですか」
理沙の問いに、私は手帳の頁を押さえた。
「現場記録の一部が欠けていました。久瀬は、その欠落が偶然ではないと考えていた」
「考えていた?」
「私も、そう思っています」
「兄は、考えていることを私には話しませんでした。危ないから、という理由でした。私を巻き込みたくない。家族には関係ない。そう言われました」
理沙は布巾を手に取った。すでに畳まれたものを、もう一度折り直す。
「でも、家族に関係ないことなんて、兄がいなくなった時点でなくなっています。警察の人は、兄が自分の意思で姿を消した可能性があると言いました。仕事を捨てたのかもしれない、遠くへ行ったのかもしれない、と。私は何度も、兄がそんな人間ではないと言おうとしました。でも、そんな人間ではないと言うには、兄のことを知らなすぎた。仕事の話はしない。家に来ても、台所の時計が遅れているとか、封筒の糊が弱いとか、そんな話ばかりでした。正しい人だったのか、ただ融通が利かなかったのか、それもわからない」
「久瀬は、理沙さんを守ろうとしていたと思います」
言ってから、私は自分の声に混じった確信を疑った。
理沙は私を見なかった。布巾の角だけを見ている。
「守るために何も言わない人は、守られる側を一人にします」
「……」
「それを優しさと呼ぶなら、ずいぶん便利ですね。何も説明しなくていい。何も相談しなくていい。相手がどう受け取るかを考えなくても、守ったことにできる」
「久瀬は、そういう人間でした」
「佐伯さんも?」
私は返事をしなかった。
理沙は手帳を閉じ、机の上で私のほうへ押し戻した。
「あなたも、兄と同じ顔をしています。何かを知っているのに、知っていることより、言っていいかどうかを先に考える顔です」
「言えば、理沙さんの生活を壊すかもしれない」
「もう壊れています」
声は大きくなかった。だが、布巾を持つ手が止まった。
「兄がいなくなった日から、私の生活は壊れているんです。壊れたものを、毎日、壊れていないふりをして並べ直してきただけです。食事を作って、洗い物をして、家計簿をつけて、古い写真を箱にしまう。そうしていると、生活だけは続いているように見える。でも、続いているのは生活であって、私が納得しているわけではありません」
理沙は手帳の表紙を見た。
「だから、兄を美談にしないでください。私を守ったことにもしないでください。兄が私に何も言わなかったなら、その無責任さも含めて見せてください」
台所の時計が、秒針を一つ進めた。
その音がやけに近く聞こえた。
「現場メモがあります」
私は鞄から複写を取り出した。
「原本ではありません。倉庫街の区画番号と、到着時刻についての記述です」
理沙は紙を受け取った。紙の端に親指を置き、裏返す。表を見て、また裏返す。紙の繊維とインクの沈み方を確かめるような仕草だった。
「兄の字ですね」
「そうです」
「この字は、最後の頁より強い」
「急いで書いた可能性があります」
「兄は急いでいるときほど、字を大きくしました。人に読ませる必要があるからです。隠すときは、小さく書く」
理沙は複写の一行を指で押さえた。
「これは、誰かに読ませるための字です」
私は顔を上げた。
「どうしてそう思うんですか」
「兄の癖を覚えているからです。子どもの頃、兄は私に置き手紙をしていました。冷蔵庫におやつがあるとか、雨なら傘を持っていけとか。急いでいるときは大きな字で書く。私が読めないと困るから。怒っているときは小さい字で書く。私に読ませたいのに、読まれたくないときの字です」
理沙は最後の頁を見た。
「この一文は、誰かに読ませたい字です。でも、誰に読ませたいのかはわからない」
「私ではない?」
「兄は、私に読ませるつもりなら、もっと普通に書いたと思います。こんなに細く、息を止めるような字では書かない」
理沙は紙を机へ置いた。
「それでも、兄は何かを残したかった。残したけれど、私のところへ直接は持ってこなかった」
「なぜだと思いますか」
「私が受け取れば、私が選ばなければならなくなるからです」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
「何を選ぶんですか」
「兄を信じるか、兄が隠した相手を疑うか。記録を警察へ渡すか、渡さずにしまうか。兄は私に決めさせたくなかった。だから、私の手の届かないところへ置いた。でも、完全に隠すこともできなかった。月舟堂の棚なら、誰かが見つける。見つけた人間が、私へ知らせるかどうかを決める」
理沙の声には、怒りより疲れがあった。
「兄はいつもそうでした。決めることを、人に渡すんです。自分で決めた結果を引き受けるのが怖いくせに、決めるための材料だけは残す。残された人間は、その材料を抱えて生きるしかない」
私は手帳を閉じた。
「私が来たことで、理沙さんに決めさせようとしているのかもしれません」
「あなたは、兄に頼まれたんですか」
「わかりません」
「では、あなた自身のために来た?」
その問いは、手帳より重かった。
私は久瀬の失踪後、何度も彼の名前を書いては消した。記事の見出しにするには、証拠が足りなかった。友人として尋ねるには、彼がいなくなった理由を知るのが怖かった。だから私は、記録を集めるふりをして、ずっと自分の臆病さを保存していた。
「そうかもしれません」
やっと、それだけ言えた。
理沙は頷かなかった。肯定もしなかった。ただ、複写の紙を二つに折り、角を揃えた。
「持って帰ってください」
「読まないんですか」
「今日は、これ以上読めません」
「手帳も?」
「手帳は、置いていってください」
私は顔を上げた。
「理沙さんのところに?」
「いいえ。あなたが持っていてください」
「なぜですか」
「私が持つと、兄の物になります。あなたが持てば、記録になります。少なくとも今は、そのほうがいい」
「でも、危険かもしれない」
「危険なのは、手帳ではありません。手帳を持った人間が、何を正しいと思うかです」
理沙は立ち上がり、台所へ戻った。畳んだ布巾を棚へしまい、別の布巾を取り出す。白い布が、夕方の薄い光の中で灰色に見えた。
「佐伯さん」
「はい」
「兄は、私に一度だけ言いました。何かあっても、誰かの正義のために暮らしを捨てるな、と」
「久瀬が?」
「そうです。だから私は、暮らしを続けました。兄のためではありません。兄がいなくても、私の時間まで失わせないためです」
理沙は蛇口をひねった。
水は出なかった。
金属の内部で空気だけが動き、乾いた音がした。
「でも、暮らしを守るために黙り続けると、いつか自分が何を守っていたのかわからなくなるんです」
私は鞄の口を閉じた。
戸口へ向かうと、理沙は居間の写真立ての前に立っていた。写真には、若い久瀬と理沙が並んで写っている。久瀬は笑っていない。視線だけが、写真の外へ少しずれていた。
理沙は写真立てを持ち上げ、ほんの数度だけ向きを変えた。
「その写真、久瀬は何を見ているんでしょう」
「わかりません」
「兄は、いつも少し遠くを見る人でした。目の前にいる人間より、その人間の後ろにあるものを見ていた。だから、私の顔もちゃんと見ていなかったのかもしれません」
写真立ての角が、棚の縁に揃えられた。
「でも、見ていなかったから守れなかったのか、見すぎたから遠ざかったのかは、まだ決めたくありません」
私は靴を履いた。玄関の鏡に、湿った髪と疲れた顔が映っている。理沙の家へ来る前より、自分の輪郭が曖昧になっていた。
「また来てもいいですか」
「手帳を持ってくるなら」
「それ以外なら?」
「兄の話をするだけなら、来なくてもいいでしょう」
理沙はそう言ったあと、少しだけ間を置いた。
「話すなら、記録を持ってきてください。記憶だけで兄を作り直すのは、もうやめたいので」
戸を開けると、雨上がりの空気が家の中へ流れ込んだ。湿った土と、遠くの排気ガスの匂いが混じっている。私は振り返らずに外へ出た。
背後で戸が閉まる。
路地を歩きながら、私は鞄の中の手帳を確かめた。表紙は変わらず軽い。だが、その軽さはもう新品の軽さではなかった。理沙の家で交わした言葉が、紙の中へ染み込んだように感じられた。
帰り道の角に、古い郵便受けがあった。投函口には、何年も使われていないらしい封筒が一枚、途中まで差し込まれている。雨に濡れた紙は膨らみ、文字の一部が滲んでいた。
私は足を止めた。
抜き取って確認することもできた。だが、しなかった。
理沙の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
記録を持つ人間が、何を正しいと思うか。
私は郵便受けの前を通り過ぎた。濡れた封筒は、見えない誰かの手を待つように、投函口からわずかに顔を出していた。
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