第1話 棚に置かれた手帳

雨は昼過ぎに上がったが、路地の石畳にはまだ水が残っていた。私は月舟堂の軒先で立ち止まり、靴底に貼りついた泥を、傘の先で二度こすった。
泥は落ちた。けれど、靴の縁には薄い茶色が残った。
店の戸を引くと、湿った街の匂いが背中から切れた。代わりに、乾いた紙と古い糊、それから木棚に染みついた埃の匂いが鼻へ入ってくる。夕方の月舟堂は、いつも音が少ない。表の通りを車が一台通れば、その走行音が店の奥まで細く伸び、やがて本の背表紙の間に吸い込まれていく。
私は入口で足を止めた。
正面の棚、その端に、一冊だけ見慣れない手帳があった。
黒に近い濃紺の表紙。背はまっすぐで、角に傷がない。雨雲書房街区の古本屋に並ぶものは、どれも誰かの手を経ている。紙の端は毛羽立ち、表紙には時間の重みが出る。だが、その手帳だけは、古びた棚の中で新しさを隠そうとしていなかった。
久瀬慎一の手帳だった。
名前を確認する前に、そう思った。背表紙に署名があるわけではない。ただ、表紙の右下に残った薄い擦れと、留め具の位置を見ただけでわかった。久瀬は物を使い込む一方で、置き方には神経質だった。手帳を閉じるとき、必ず角を揃える。ペンを挟むなら、紙の折れない場所を選ぶ。五年前、彼の机の上にあったものと同じ形をしていた。
「触らないで」
帳場の奥から白石澪の声がした。
私は手を伸ばしかけたまま止めた。
白石は仕入れ帳を開いていた。片手で頁を押さえ、もう片方の指で記入欄を上から下へなぞっている。彼女は人の顔を見るより先に、物の並びを見る。客がどんな顔をしていても、手元に何を置いたか、棚からどの本を抜いたかを覚えている店主だった。
「入荷品じゃないのか」
「違う」
「値札は?」
白石は答えず、手帳の脇に貼られた小さな紙片を剥がした。値段は書かれていなかった。代わりに、鉛筆で短い線が一本だけ引かれている。
「誰かが売りに来たなら、記録が残る。持ち込みの時間、名前、冊数。少なくとも、私の帳面には」
彼女は仕入れ帳を私のほうへ向けた。今日の日付の欄には、文庫本が十二冊、雑誌が四冊、古い便箋の束が一つ。そこから先に、手帳に該当する記入はない。
「だったら、誰かが勝手に置いた?」
「勝手に、ではないと思う」
「置いた場所が決まっているから?」
白石はようやく私を見た。目の色は暗く、感情を読み取りにくい。だが、彼女が手帳ではなく、棚の木目を見ていることに気づいた。
「棚の端から三冊目。ここは、背の低い本を置く場所じゃない。手帳を置くなら、もう少し奥に入れる。客の手が最初に届く高さでもない。置いた人は、本を選ぶ客のふりをしていない」
「では、店の人間のふりをした?」
「店の人間なら、背表紙の高さを合わせる」
白石は手帳を指先で押した。ほんの少しだけ前へ出ていた背が、隣の本と一直線になる。
「この置き方をした人は、戻すことだけを考えていた。見栄えは考えていない」
「戻す?」
「そう。売るために持ってきたものではなく、元の場所へ戻したものに見える」
私は手帳の表紙を見つめた。
久瀬が失踪したのは五年前だった。警察は、事件性の有無を明らかにしないまま捜索を縮小し、やがて「所在不明」という言葉で処理した。私が何度尋ねても、高瀬宗一は「継続して確認している」としか言わなかった。久瀬の妹の理沙は、半年ほどの間、兄の名前が出るたびに手を止めた。その後は、誰も兄の話をしなくなった。
私も、しなくなった。
しなかったというより、できなかった。久瀬と私は、ひとつの調査を途中まで一緒に追っていた。倉庫街の出入り記録と、警察が発表した時刻が合っていなかった。私はその記事を書きかけて、結局、半分だけを掲載した。裏を取れなかったからだ。そう自分には説明してきたが、書かなかった半分の中に、誰かの生活を壊す名前があったことも覚えている。
私は手帳を棚から抜いた。
表紙は乾いていた。古い革に似せた合成皮革ではなく、きめの細かい布張りだった。指先に、ほとんど抵抗がない。久瀬の手帳はいつも、雨の日だけ少し重くなった。紙が湿気を吸い、頁をめくる指にわずかにまとわりついたからだ。
これは軽かった。
新品の軽さだった。
「開いていいか」
「もう開いているのと同じでしょう」
白石はそう言ったが、制止はしなかった。
最初の数頁には、何も書かれていなかった。次の頁から、久瀬の筆跡が現れた。細く、右へ傾き、文字と文字の間隔が妙に狭い。彼は感情が乱れるほど文字を小さくした。怒っているときほど、読みにくくなる。私が何度も「もう少し大きく書け」と言うと、彼は決まって、「読める人間だけ読めばいい」と答えた。
頁には日付があった。五年前の秋。倉庫街の区画番号。搬入口。巡回の時刻。名前のない人物を示す丸印。
いくつかの行は黒いインクで塗りつぶされていた。上から何度もなぞったため、紙の表面が硬く盛り上がっている。その下に文字が残っているかもしれない。けれど、強い光を当てなければ読めそうにない。
「久瀬の字だな」
「あなたが言うなら、そうなんでしょうね」
「疑っているのか」
「筆跡を見ているだけ。似た字を書く人はいる」
「この字は似せられない」
「なぜ?」
私は頁の左端を指で押さえた。
「久瀬は、書く前にペン先を一度止める。文字の始まりに、小さな溜まりができる。ここにもある。ほとんど見えないが、同じだ」
「あなたは、そんなところまで覚えているの」
「覚えているんじゃない。何度も見た」
白石は仕入れ帳を閉じた。表紙が乾いた音を立てる。
「何度も見て、それでも五年間、見つけられなかった」
責める声音ではなかった。だから、返す言葉がなかった。
私は頁を進めた。古い区画図が挟まっている。倉庫街の北側、使われなくなった荷捌き場、鉄扉の位置。久瀬は地図の上に線を引き、何度も消していた。線の終点は、再開発計画で新しい通路が通る予定の場所に重なっている。
その下に、短い記述があった。
――現場記録、一部欠落。到着時刻と搬出時刻が合わない。
さらに一行。
――高瀬にはまだ渡さない。
私はそこで手を止めた。
「高瀬さんの名前がある」
「見ればわかる」
「五年前の捜査で、久瀬は高瀬さんを疑っていたのか」
「疑う、という言い方は便利ね」
白石は手帳を覗き込んだ。長い髪が頬の近くへ落ちたが、彼女は直さなかった。
「人を疑っていたのか、記録の順番を疑っていたのか。久瀬さんは、そこを分けて考える人だったでしょう」
「知っているように言うな」
「知らない。けれど、物の置き方は見ている」
彼女は最後の頁を開いた。
紙面の中央より少し下に、細い字があった。
ここで終わりにしろ。棚に戻せ。
その文章の下に、別の紙が挟まっている。黄ばんだ現場メモだった。端は古いのに、手帳に挟まれていた部分だけが白い。折り目も弱い。後から入れられた紙ではなく、後から一度抜き取られ、また戻されたように見えた。
私は紙を抜いた。
裏側に、倉庫街の区画番号がひとつだけ書かれていた。
「この字も久瀬か」
「あなたが見分けるんでしょう」
白石の言葉に、少し棘があった。
私は筆跡を比べた。現場メモの字は久瀬のものだった。ただし、最後の一文とは違う。現場メモは文字の間隔が広く、線が強い。急いでいるのに、行の高さは乱れていない。一方、「棚に戻せ」の字は、細く、軽い。書き手が同じだとしても、同じ状態ではない。
「どう?」
「似ている。でも、同じ人間が別のときに書いた可能性もある」
「可能性ばかりね」
「記録を見ている以上、断定はできない」
「断定できないことを、あなたは嫌うと思っていた」
「嫌っている。だから、嫌いなまま残している」
白石は手帳の端を撫でた。紙の角を確かめるような仕草だった。
「佐伯さん。あなたは、これを警察へ持っていくつもり?」
「高瀬さんに見せる」
「同じこと」

「違う。高瀬さんはもう警察ではない」
「組織を離れた人間なら、組織の記憶を失うとでも?」
私は答えなかった。店の奥で、壁時計の針が一つ進んだ。窓の外を車が通り、濡れた路面をタイヤが擦る音がした。店内の静けさは、音がないのではなく、音の一つ一つを隠さずに聞かせる静けさだった。
「この手帳は、久瀬が戻したのかもしれない」
私は言った。
「本人が?」
「少なくとも、本人の意思が関わっている。誰かに命じられた可能性もある。けれど、五年後に月舟堂へ置かれた。偶然じゃない」
「どうして月舟堂なの」
「久瀬は昔、ここへ来ていた」
「本を買いに?」
「本を買うより、余白を見に来ていた。書き込みのある古本を好んだ。誰かが残した一行のほうが、印刷された本文より正直だと言っていた」
「それなら、ここが記録の置き場だと知っていた」
「そうだ」
「でも、店を巻き込む理由にはならない」
白石の声が初めて揺れた。わずかな揺れだったが、紙をめくる音よりはっきり聞こえた。
「私の店は、誰かの隠し場所じゃない。売るものを預かって、買う人へ渡す場所よ。置かれた物を見つけることはできる。でも、置いた人間の代わりに責任を負うつもりはない」
「責任を負わせるつもりはない」
「あなたはそう言う。でも、あなたの目はもう店の棚を調べ始めている」
私は反射的に周囲を見た。棚には古い地図帳、帳簿、背表紙の欠けた全集が並んでいる。どれも長い時間をここで過ごしてきたように見えた。だが、そう見えること自体が誰かの手入れの結果なのだと、今さら気づいた。
「手帳を見つけたのはあなたじゃないのか」
「見つけたのは私。だから、どう扱うかも私が決める」
「なら、見せてくれ」
「何を?」
「仕入れ帳だけじゃない。最近、誰がこの棚の前で立ち止まったか。誰が、どの本を手に取って、戻したか」
白石はしばらく私を見た。それから帳場の下から、細い無地のノートを取り出した。表紙は擦れているが、角は揃っている。
「客の記録」
「そんなものまでつけているのか」
「つけているというより、覚えていることを書いているだけ。顔は書かない。足音と、視線の動きと、本を戻すときの癖」
「それで、手帳を置いた人間がわかる?」
「まだわからない」
「まだ?」
「昨日の夕方、閉店前に、棚の前で妙に長く立っていた人がいる。傘を持っていた。濡れていたのに、店の床へ水滴を落とさなかった。靴底を拭いたか、入る前に雨を避けていたか。顔は見ていない」
「男か女か」
「そこも見ていない」
「なぜ見なかった」
「見ないほうが、相手が置きやすいこともあるから」
白石はノートを閉じた。
「佐伯さん。記録を残すことと、すぐに誰かへ渡すことは別よ。あなたはいつも、その二つを一緒にしようとする」
「渡さなければ、記録は死ぬ」
「渡したせいで、誰かが死ぬこともある」
その言葉は、店の中に置かれたまま動かなかった。
久瀬の手帳に触れている指先が冷えていく。私は彼の失踪を、ずっと捜査の続きを探すことだと思っていた。だが、久瀬が残したのは答えではない。答えを誰に渡すかという、もっと厄介な選択だった。
「それでも、見なかったことにはできない」
「そう言うと思った」
「なら、なぜ止める」
「止めていない。置き方を考えているだけ」
白石は手帳を私の手から取り上げた。乱暴ではなかった。むしろ、壊れやすい紙を扱うときのように慎重だった。
「ここにある限り、誰かはまた取りに来る。持っていけば、誰かが探しに来る。どちらを選んでも、店は無関係ではいられない」
「だったら、いちばん人目につく場所に置く」
「それは正義ではなく、騒ぎよ」
「騒ぎになれば、隠せない」
「隠せないことと、明らかになることは違う」
白石は最後の頁を開いた。「棚に戻せ」という文字が、帳場灯の下で細く浮かんでいる。
「この一文を、命令だと思っているでしょう」
「違うのか」
「わからない。誰かを脅す文章にも、誰かを逃がす文章にも見える。棚に戻すというのは、しまうことかもしれない。あるいは、ここに戻せば見つける人間がいると信じたのかもしれない」
「久瀬が?」
「久瀬さんを知っているのは、あなたでしょう」
「知っていたと思っていた」
言ってから、口の中に苦いものが残った。
久瀬は、私が記事にしなかった半分を知っていた。最後に会った夜、彼は喫茶店の窓際で、冷めたコーヒーを前にしていた。私が「書けない」と言うと、彼は怒らなかった。ただ、手帳の頁を一枚めくり、そこに小さな字で何かを書いた。
重要なことほど、小さく書く。
それが久瀬の癖だった。
私はその頁を見せてくれと頼まなかった。頼めば、書かなかった自分の理由まで見透かされる気がしたからだ。
「この手帳、預かっていいか」
白石はすぐには答えなかった。
「持ち出すなら、名前を書いて」
「名前?」
「いつ、誰が、何を持ち出したか。店の帳面に残す」
「信用していないのか」
「信用しているから残すの。信用だけで記録を省くと、あとで誰かの記憶が代わりになる。記憶は、都合よく形を変えるから」
私は万年筆を取り出した。仕入れ帳の余白に、日付と時刻を書いた。筆先が紙に触れる前に、一度だけ止まる。久瀬の癖を真似たわけではない。そう思いながら、私は自分の字がわずかに小さくなっていることに気づいた。
白石はその記入を見届けると、手帳を差し出した。
「今夜だけ」
「高瀬さんに会う」
「会うだけにして」
「それ以上をするな、と?」
「急いで答えを作らないで。紙は、書いた順番で意味が変わることがある」
久瀬の言葉を聞いたような気がした。
私は手帳を鞄へ入れた。角が折れないよう、古いノートとの間に挟む。戸口へ向かうと、白石が背後から声をかけた。
「佐伯さん」
振り返る。
「手帳を返すときは、棚へ戻して」
「誰に言われたから?」
「店主として」
白石はそう言って、空いた棚の位置を見た。
「置かれたものを、勝手に別の場所へ移すのは、記録を読んだことにならないから」
外へ出ると、雨上がりの空がすでに暗くなっていた。路地の水たまりに、看板の明かりが細く揺れている。濡れた石の上を歩くたび、靴底から小さな音が返ってきた。
鞄の中で、手帳はほとんど重さを持たなかった。
それでも私は、歩幅をいつもより狭くした。中身を揺らさないためではない。五年前に置き去りにしたものを、今度はどこへ置くのか、まだ決められていなかった。
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