第5話 処置記録の空白

海辺の診療所へ向かう道は、写真館からの道よりも潮の匂いが強かった。

防波堤の向こうで、灰色の波が規則正しく砕けている。砂利道には貝殻の欠片が混じり、踏むたびに乾いた音を立てた。風は昨日より強く、私の襟首を何度も撫でていく。榊原には、今日は別の用があると言われていた。「診療所は、俺が行くと喋らなくなる女だ」とだけ言って、彼は資料庫に残った。

診療所は、白い壁の小さな建物だった。塗装はあちこちで薄く剥がれ、下地の灰色がうっすらと透けている。潮風に長く晒された壁は、人の肌が日に焼けるのと同じように、表面から少しずつ色を失っていくのだろう。入口の引き戸には、「望月診療所」と墨で書かれた古い看板が掛かっていた。

戸を引くと、消毒液の匂いが鼻を刺した。紙とインクの匂いに慣れている私には、その匂いが余計に鋭く感じられる。待合室には誰もいなかった。古いベンチが二列、壁際に並び、その奥の薬棚の前で、白衣の女が記録簿の背表紙を指でそろえていた。

望月沙耶は、私が戸を閉める音にも振り返らなかった。棚の端から端まで、背表紙の高さをすべて揃え終えてから、ようやく顔を上げた。

「役場の記録係の方ですね」

「早川透です。旧北岬駅の保存調査で、十年前の記録を確認しています」

「何の記録でしょうか」

「失踪当夜の来院記録です」

沙耶は一拍だけ置いた。その間の長さは、迷っているというより、言葉を選ぶための沈黙だった。白衣の袖口を両手で整えてから、彼女は薬棚の下段から古い控えを取り出し、机の上に置いた。紙は湿気を吸って波打ち、頁をめくるたびに乾いた音がした。蛍光灯の白い光が、紙の表面を鈍く照り返す。

「どうぞ。読める範囲で」

「読める範囲、というのは」

「字が薄いところがあります。古いインクですから」

私は頁をめくった。日付は十年前の秋、台風接近の夜まで遡る。来院者の名前、症状、処置の内容、受け渡した薬の品目と時刻。几帳面な字で埋められた頁が続く中、ある一夜のところだけ、記述が妙に薄かった。

来院時刻の欄は書かれているが、症状の欄は「体調不良」とだけ記され、処置の内容は空欄に近い。薬の受け渡し時刻も、数字の一部がかすれていて判読しづらい。私は欄外の余白を指でなぞり、インクの濃さの違いを確かめた。他の頁に比べて、この一夜だけ筆圧が弱い。書くことをためらった手の跡だった。

「この夜だけ、記述が薄いですね」

「そうかもしれません」

「深町直人さんが来たとされる時間の前後です」

沙耶の視線が、一瞬だけ控えの頁に落ちた。すぐに顔を上げる。

「患者を守るために、書き方を変えたことはあります」

「深町さんの夜も、そうだったんですか」

沙耶は答える前に、白衣の袖口をもう一度整えた。意味のない仕草ではなかった。何かを言う前に、自分の輪郭を確かめているように見えた。

「……あの夜は、体調不良で済ませたほうがいい人がいました」

「それは誰です」

「名前を残すと、困る人がいた」

短い答えだった。だが、その短さの中に、十年分の重みが詰まっているのを私は感じた。沙耶の声は低く、説明というより、自分自身に向けて確認しているような響きがあった。

「困る、というのは、誰にとってですか」

「書いた私にとってか、書かれなかった人にとってか、それとも町にとってか。あなたは、どれを聞いていますか」

「全部です」

沙耶はわずかに目を細めた。嘲りではない。私の答え方に、何か見覚えのある形を見つけたような目だった。

「深町さんは、几帳面な人でした。駅で何かあると、必ず誰かに確認を取ってから動く。曖昧なまま済ませることを、ひどく嫌う人でした」

「ご存じだったんですか」

「患者として、何度か」

沙耶はそこで言葉を切った。私は待った。沈黙の中に残る言葉を急かせば、相手はもっと奥へ言葉を仕舞い込んでしまう。榊原のやり方を、私はいつの間にか真似していた。

待合室の奥で、古い壁掛け時計が小さく鳴った。秒針の音が、白い壁に吸われて細くなる。その音を聞きながら、私は処置記録の端と、以前見た駅務の出勤簿の時刻を頭の中で重ねた。二つの記録は、同じ夜の同じ時間を指していない。わずかなずれが、台風の夜の輪郭をぼかしていた。

「深町さんは、あの夜、怪我をしていたんですか」

「怪我、とまでは言えません」

「では」

「濡れていました。ひどく」

沙耶の声が、わずかに硬くなった。

「台風の夜です。濡れていること自体は、珍しくありません。でも、彼の様子は、ただ雨に打たれただけには見えませんでした」

「どう見えたんですか」

「何かから、逃げてきたように見えました」

私はペンを止めた。黒いメモ帳の余白に、その言葉をそのまま書き写す。沙耶はその手元を見ていた。

「書くんですね、そのまま」

「違っていれば、違っていたと後で書き直します。でも、聞いた言葉を勝手に削ることはしません」

「削らないことが、誠実だと思いますか」

「誠実とは思いません。でも、削るのは、誰かのためにやることです。私はまだ、誰のために削ればいいのか、わかっていません」

沙耶は小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、判別のつかない吐息だった。

「深町さんは、来院したとき、何も話しませんでした。ただ、処置の最中に一度だけ、紙を持っているかと聞かれました。書くものがほしい、と」

「何を書いたんですか」

「知りません。渡した紙は、彼が帰るときに持って帰りました。私はその紙に何が書かれたのか、見ていません」

「見ようとしなかった、ということですか」

沙耶は初めて、私の目をまっすぐに見た。

「見れば、巻き込まれると思いました。私には守るべき患者がいます。深町さん一人のために、診療所の信用を失うわけにはいかない。そう思って、見ないふりをしました」

「それが、記録を薄くした理由ですか」

「はい」

認める声は静かだった。だが、静かであるほど、その言葉の重さが増していくように聞こえた。沙耶は聴診器の金属部分を親指で一度だけ押さえた。悔いるための仕草ではない。責任の所在を、自分の皮膚の内側へ押し戻すための癖だった。

「患者の顔を守るつもりで、記録の一行をずらしたんですね」

「そうです」

「でも、そのことで、別の誰かの不在が長引いた。深町さんが最後にどこへ向かったのか、誰にもわからなくなった」

沙耶は否定しなかった。否定しない代わりに、視線を控えの頁へ戻した。

「あなたは、それを責めに来たんですか」

「いいえ。確認しに来ました」

「同じことのように聞こえます」

「違います。責めるのは、誰かを裁くための言葉です。私がしているのは、何が書かれ、何が書かれなかったかを、順番に並べることだけです」

「並べて、何を見つけるんですか」

「深町さんが、最後にどこへ向かおうとしていたか」

沙耶は長く沈黙した。待合室の時計が、また小さく鳴る。その間、彼女の呼吸はひどく静かで、白衣の肩がわずかに上下するだけだった。

「深町さんは、処置が終わったあと、礼を言いました。丁寧に、何度も。それから、玄関を出る前に、一度だけ振り返りました」

「何か言いましたか」

「『誰かが聞いたら、濡れていただけだと言ってください』と」

私は息を止めた。濡れていただけ——それは、町がこの十年繰り返してきた言い換えの、最初の一言だったのかもしれない。体調不良、眠れなかった、風が強かった。沙耶の記録は、その言い換えの技術を、最も穏やかな形で引き継いでいた。

「あなたは、その言葉どおりに書いた」

「書きました。彼が望んだとおりに」

「深町さんは、自分を消そうとしていたんでしょうか」

「わかりません。ただ、あの人は、誰かを守るために、自分の輪郭を薄くする人でした。几帳面に整えられた帳簿の奥で、自分の姿だけを曖昧にしていく。そういう人でした」

沙耶の声に、初めてわずかな震えが混じった。感情を抑えているのではなく、感情を医療用の順番に並べ直そうとして、うまくいかなくなった震えだった。

「私は、あの夜から十年、その言葉を守ってきました。守ることが正しいと思っていたからです。でも最近、思うんです。守ったのは深町さんではなく、私自身だったのかもしれないと」

「ご自身を、ですか」

「見てしまったものを見なかったことにする。それができる自分を、守っていたんです」

沙耶は控えを閉じた。紙の波打った表面が、蛍光灯の光を鈍く弾く。

「早川さん。記録は、重要だと思います。でも、記録だけでは人は救えません。あの夜、私は記録より先に、目の前の人を落ち着かせることを選びました。それは間違っていなかったと、今でも思います」

「間違っていなかった、でも」

「でも、落ち着かせたあとで、何を書くかを選んだのは私です。その選択までは、誰にも委ねられません」

彼女はそう言って、控えのコピーを一枚、机の端から私の方へ滑らせた。

「持っていってください。深町さんの名が書かれた一行です」

紙を受け取ると、確かにそこには深町の名があった。他の文字より、わずかに筆圧が弱い。消した跡ではない。触れないまま、そっと通り過ぎた筆の跡だった。

「これを渡すことに、迷いはなかったんですか」

「迷いました。今も迷っています」

沙耶は窓の外を見た。防波堤の向こうで、波が同じ調子で砕けている。

「でも、迷ったまま渡さずにいることは、もう十年続けました。これ以上続ければ、迷いではなく、ただの習慣になる。習慣になった沈黙は、罪だとさえ呼べなくなる気がして、怖くなったんです」

私は紙を丁寧に折り、黒いメモ帳の間に挟んだ。礼を言って戸口へ向かう途中、沙耶の声が背中に届いた。

「早川さん」

「はい」

「深町さんの名前を、記録に戻すとき」

「はい」

「濡れていただけ、とは書かないでください」

私は振り返った。沙耶は白衣の袖口を整えながら、初めて、かすかに笑ったように見えた。悲しみに近い笑みだった。

診療所を出ると、潮風が顔に吹きつけた。波の音は変わらず規則正しく、空は海霧の気配を薄く孕んで白んでいる。私は折りたたんだ紙をもう一度確かめ、黒いメモ帳を閉じた。

誰かを守るための沈黙が、別の誰かの不在を長引かせる。沙耶の言葉は、まだ私の中で輪郭を結びきれずにいた。それでも、深町直人という名前が、また一つ、消えかけた形から立ち上がってくるのを感じていた。

帰り道、防波堤の向こうで波が砕ける音を聞きながら、私はメモ帳にもう一行だけ書き加えた。

深町直人は、最後に「濡れていただけ」と言い残した。

その言葉の奥に、まだ書かれていない何かがある。

← 横にスクロールして読み進められます

処置記録の空白 - 霧駅の切符 - 誰でも作家life