第10話 第10話「八分間の原本」

駅ノートを閉じたとき、切符売り場の外で車のドアが閉まった。
霧は薄くなっていた。けれど、駅前の輪郭はまだ白く滲み、車体の色までは見えない。エンジンの音だけが、濡れた砂利の上を低く伝わってくる。
榊原が私の隣で顔を上げた。
「片桐だ」
「見えていないのに、わかるんですか」
「止め方が丁寧すぎる。あいつは、車を停めるときまで書類みたいに扱う」
正面のガラス戸が二度、控えめに叩かれた。
榊原はすぐには動かなかった。扉の向こうにいる人間の靴音を聞いているようだった。やがて合鍵束を取り出し、私へ手を差し出す。
「鍵を預かってくれ」
「榊原さんは?」
「俺は、ここにいる。駅の中へ入る許可を出す側だ」
「片桐さんにですか」
「今夜は、おまえにだ」
鍵は冷たかった。真鍮の表面に、長年の手垢が薄く残っている。
榊原が扉を開けた。
片桐恒一は、紺色の上着をきちんと着込み、濡れた傘を畳んで立っていた。髪にも靴にも乱れがない。右手には薄い書類鞄を持ち、左手には役場の鍵束が下がっている。
「遅い時間に失礼します」
彼は駅舎の中を見回し、切符売り場の灯り、掲示板、床の潮の粒を順番に確認した。
「原本の保管状態を確認し、必要であれば役場へ移送します。先ほど相馬さんから連絡を受けましたので」
「移送の許可は出ていますか」
私が尋ねると、片桐は書類鞄から一枚の用紙を取り出した。
「保存資料の一時回収に関する内部手続きです。旧北岬駅は湿気がひどい。資料の劣化を防ぐためには、役場の保管庫へ移したほうが適切です」
「今夜、移す必要がありますか」
「原本は、時間を選んで傷むわけではありません」
丁寧な言葉だった。だが、書類の端を押さえる指だけが、わずかに白くなっている。
「写真館の原板は、県警へ提出されました」
「承知しています」
「診療所の記録も、久慈さんの運行日誌も、相馬さんが確認しています」
「それも承知しています」
「では、なぜ保守点検簿だけを今夜、移すんですか」
片桐は一度、私の顔を見た。すぐに視線を落とし、書類の日時欄へ移す。
「保守点検簿だけではありません。駅務関係の原本全般です」
「十年前の台風夜に関係するものだけ?」
「保存状態に問題があるものから、順に」
「順番は誰が決めましたか」
「私です」
答えが早かった。
私は資料庫の扉へ目を向けた。扉の脇には、昨日までなかった白い紙が貼られている。回収予定資料一覧。項目は細かく、日付も、保管番号も、移送先も整っていた。
ただし、ひとつだけ欄が空いている。
回収理由の欄だった。
「この一覧に、深町直人の勤務手帳がありません」
「勤務手帳は、正式な保存対象ではありません」
「昨日までは、資料庫の奥にありました」
「個人の手帳です。駅の公的記録とは区別されます」
「では、なぜ今日の日付の切符と同じ箱に入っていたんですか」
片桐の指が止まった。
ほんの一瞬だった。だが、紙の上に置かれた指先が、押印欄の上で動かなくなった。
「それは、榊原さんの保管方法に問題があったのでしょう」
「榊原さんは、箱へ入れた覚えがないと言っています」
片桐は榊原を見た。
「記憶違いではありませんか」
「俺は、紙を箱へ入れるとき、必ず番号を振る。深町の手帳には番号がない」
「番号がないのに、箱にあった」
「そうだ」
「それは不自然ですね」
「おまえが言うな」
榊原の声が低くなった。
片桐は表情を崩さなかった。けれど、傘の先から落ちた水滴が、床の同じ場所へ二つ続けて落ちた。
「原本を確認します」
彼は資料庫へ向かおうとした。
私は鍵を握ったまま、扉の前から動かなかった。
「相馬さんを待ちます」
「緊急の保全です」
「県警の立会いなしに、原本を移す権限はありますか」
「保存管理者としての権限があります」
「では、移送記録を作成してください。資料名、現在の保管場所、移送時刻、移送者、立会人。すべて書いてください」
「もちろんです」
「移送前の状態も」
「当然です」
「綴じ糸の色、紙の反り、頁の欠落、貼り替えの有無も」
片桐の顔から、わずかに温度が消えた。
「そこまで必要ですか」
「必要です。原本は、移したあとで別の状態になる可能性があります」
「私が改ざんすると?」
「可能性を記録するだけです」
「随分と疑われていますね」
「疑っているのではありません。比較するためです」
片桐は小さく息を吐いた。
「あなたは、記録があれば真実に届くと思っている」
「届くとは思っていません」
「では、何を信じているんです」
「記録を変えた人間は、変える前の状態を知っている。それだけです」
彼は黙った。
私は資料庫の鍵を鍵穴へ差し込んだ。金属が擦れる音が、冷えた駅舎に長く響く。
扉を開けると、古紙と湿気の匂いが流れてきた。棚の一番下に、保守点検簿が並んでいる。昨日、榊原と確認したときには、十年前の台風記録は左から三冊目にあった。
今は、二冊目と四冊目の間に、薄い白紙のファイルが挟まっていた。
表紙には、回収済みと印刷されている。
「これは、いつから?」
「先ほど確認したときにはありませんでした」
榊原が答えた。
片桐は白紙のファイルへ手を伸ばした。
私はその手首を見た。袖口に、乾いた白い粉がついている。紙魚の粉ではない。綴じ糸を切ったときに出る、古い糊の粒に似ていた。
「触らないでください」
「公的資料です」
「だからです」
片桐の手が空中で止まった。
遠くで車のエンジン音がした。相馬の車だろう。片桐は音の方向へ顔を向け、それから白紙のファイルへ目を戻した。
「早川さん」
「はい」
「記録を残すことが、いつも誰かのためになるとは限りません」
「知っています」
「町には、知らないほうがいいこともある。十年前のことを掘り返せば、深町さんの家族も、写真館も、診療所も、役場も、全員が傷つく」
「傷つくことと、消すことは別です」
「あなたは、町が壊れても構わないんですか」
「壊れる原因が記録なら、記録を壊す理由にはなりません」
片桐は笑わなかった。
「深町さんは、そういう人でした」
初めて、彼の口から深町の名前が、過去形でも転居者の名でもなく出た。
「何を知っているんですか」
片桐は答えず、白紙のファイルを見つめた。
その背表紙の下端から、細い紙片が覗いている。私はしゃがみ込み、指で引き抜いた。
古い駅務用の記録紙だった。
紙片には、四つの時刻と、深町の字で短い言葉が残されていた。
七時三十五分――退勤にされた。 七時五十六分――灯りは残る。 八時三分――車が来る。 八時十一分――記録が戻る。
その下に、別の筆跡で一行が書き足されていた。
戻ったのは電気だけ。
片桐が息を呑んだ。
私は紙片をクリアファイルへ入れた。榊原が、低い声で尋ねる。
「この字は、誰のだ」
片桐は長いあいだ黙っていた。
やがて、駅舎の外で相馬の靴音が近づいてきた。濡れた砂利を踏み、扉の前で止まる。
片桐は白紙のファイルへ手を置いた。
「その書き足しは、私の字です」
彼の指が、紙の端を押さえた。
「深町さんは、戻ってきませんでした。戻ったことにされたのは、電気と記録だけです」
扉が開いた。
相馬が息を切らし、資料庫の中を見回す。私は手の中の紙片を差し出した。
「八時三分から八時十一分までの記録です」
相馬は受け取らず、まず片桐を見た。
「何があった」
片桐は答えなかった。
切符売り場の灯りだけが、資料庫の入口から白く差し込んでいる。照らされているのは、床と、紙片と、片桐の手だった。
その手の甲には、古い糊の粉がまだ残っていた。
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