第7話 机の上に夜を並べる

裏二十七の扉は、黒田が叩いても応えなかった。

倉庫と私設文庫を結ぶ渡り廊下の端、搬入口と呼ばれる古い鉄扉は、錆びた蝶番の重さだけを残して沈黙していた。黒田が懐中電灯を扉の隙間に差し入れ、内側の暗がりを探ったが、積まれた木箱の輪郭が浮かぶだけで、人の気配はどこにもなかった。

「開かない。鍵がかかっている」

黒田の声は、雨の中でも平静だった。だが、その平静さの裏に、苛立ちに似た疲れがにじんでいるのを、私は知っていた。この男は、証拠のない場所で立ち尽くすことを、誰よりも嫌う。

真帆が傘を傾け、扉の下の隙間を覗き込んだ。

「ここ、濡れてません」

言われて私も屈み込んだ。扉の下、コンクリートの土間だけが乾いている。周囲はすべて雨を吸って黒く濡れているのに、そこだけが古い色のままだった。何かが、ここを塞いでいた時間がある。塞いでいたものが取り除かれたのは、ごく最近だ。

「誰かが、ここを通った」

「でも、今はいない」

真帆の声には落胆があった。来るまでの道のり、彼女は一度も弱音を吐かなかった。だが、扉の向こうに久瀬がいるという確信が、彼女の中にもあったのだろう。それが音もなく崩れる瞬間を、私は見てしまった。

篠原は何も言わず、扉の蝶番に指を這わせていた。油の切れた金属の軋みを、彼は耳で確かめるように、何度も扉を揺らした。

「開けられるか」

私が聞くと、篠原は首を振った。

「壊せば開く。だが、壊せば中の順番が崩れる」

「順番」

「誰が、いつ、どの箱に触れたか。それを見るための鍵が、この扉の開け方にある」

篠原らしい言葉だった。彼は、壊れたものを直すことに執念を持つ男だが、同時に、壊すという行為の意味も誰より知っている。扉を蹴破ることは簡単だ。だが、それをした瞬間、ここにあったはずの時間の層は、取り返しのつかない形で潰れる。

黒田が懐中電灯を消した。

「令状がなければ、これ以上は踏み込めない。今夜のところは、ここまでだ」

「久瀬がいない。だったら、どこにいる」

「分からない。だが、ここに久瀬がいた形跡だけは残っている。扉の下の乾いた土間、それだけでも裁判所は動く材料になる。今、無理に壊せば、それすら台無しだ」

黒田の言葉は正しかった。正しいからこそ、私の中で何かが焦れた。久瀬が今どこにいるのか分からないまま、証拠だけを守るという理屈に、私は従わなければならない。

雨が、傘の布地を叩く音だけが、しばらく四人の間に続いた。

「戻ろう」

私はそう言った。言った瞬間、自分の声が、思ったより掠れていることに気づいた。

槐書房へ戻る道のりは、来たときよりも長く感じられた。濡れた舗道に映る街灯の光が、歩くたびに崩れては、また形を結び直す。真帆は黙って半歩後ろを歩き、篠原は骨へらを包んだ布を、胸元に抱えたまま一言も発さなかった。

店に着くと、私は真っ先に帳場へ向かった。

「真帆、台帳と領収書、防犯灯の記録、貸出札の束を、全部ここへ持ってきてくれ」

「今夜、もう一度見るんですか」

「ここに来て、まだ何も見ていない。倉庫の扉だけを見てきた」

真帆は頷き、棚の奥から紙の束を抱えて戻ってきた。古い木の天板の上に、彼女は紙片の角を揃えながら、一つずつ並べていく。朱肉の匂いが、まだかすかに机の縁から立ち上っていた。この店の帳場は、どれだけ夜が更けても、この匂いだけは消えない。

紙は、単体ではただの記録にすぎない。台帳の一行、領収書の一枚、貸出札の一枚。それぞれを見れば、ただの事務の痕跡だ。だが、向きと順番を揃え、折り目と筆圧の角度を見比べ、同じ時刻の周囲に置かれたものを重ねると、そこに人間の呼吸が浮かび上がってくる。

真帆は紙片の角をきっちり合わせ、行頭のずれを指先で数えていった。几帳面な彼女の仕草は、焦りを押し殺すためのものでもあった。久瀬の名が記された行まで来ると、彼女は一瞬、手を止め、小さく息を止めた。

「ここ、やっぱり薄いです」

「分かっている」

私はその空白を見つめながら、椅子の引きずられ方、貸出札の置き直し、防犯灯の点灯時刻が、ひとつの夜の中で少しずつずれているのを、もう一度順になぞった。

久瀬は、消えたのではない。

閉店後のこの店内で、誰かに呼び止められ、持っていた紙片を奪われた人物として、私の中で立ち上がっていた。机の脇に残る、あの細い擦れ跡は、急いで身体を寄せた時のものだ。貸出札の順番も、その瞬間に触れた手の動きを示している。

「駿さん、これ」

真帆が、棚の奥から見つけた蔵書票の控えを差し出した。古い紙の匂いが、彼女の指先から立ち上る。裏返すと、針先で押したような小さな番号が、光の角度によってかすかに浮かんだ。

二七。一。

私は紙を持ち上げ、朱肉の匂いと雨の湿気が混じる空気の中で、その番号をもう一度確かめた。

「久瀬は、この番号を見た瞬間に、何かを確信したんだと思う」

「確信、ですか」

「ここに書かれた番号は、槐原家の旧蔵書目録にある登録番号と同じ並びをしている。久瀬は、この蔵書票を見つけた時点で、自分の追っていたものが、どこに繋がっているかを理解したはずだ」

真帆は、机の上に広げられた紙の群れを見渡した。領収書の日付、台帳の筆跡、防犯灯の時刻、貸出札の抜け。ひとつひとつが、別々の嘘を抱えながら、同じ夜を語っていた。

「駿さん、怖いこと言っていいですか」

「言え」

「久瀬さんは、この番号を見つけたあとで、誰かに見つかったんじゃないでしょうか。見つけたことを、誰かに悟られたから」

その言葉は、私がまだ口にしていなかった推測に、そのまま重なった。真帆は専門知識を持たない。だからこそ、知識が邪魔をしない目で、紙の向こうにある人間の動きを見てしまう。

「たぶん、そうだ」

「じゃあ、久瀬さんは」

「生きているか死んでいるかは、まだ分からない。だが、この番号を奪いたい人間がいたことだけは、ここに書かれている」

私は蔵書票を薄紙の上に置いた。朱肉の匂いが、紙の繊維の奥から、まだ微かに立ち上ってくる。黒田は机の端に腰を預け、腕を組んだまま、紙の並びを見ていた。

「駿。お前はもう、この番号が何を示すか分かっているんだろう」

「分かっている」

「言え」

私は台帳を引き寄せ、久瀬の名の記された行の隣に、ペンで短く書き足した。

〈二七・一。槐原家旧蔵書目録、該当箇所あり。〉

書き終えた瞬間、机の上に並べられた紙の群れが、ようやく一つの夜として像を結び始めた。久瀬が何を見つけ、何を持ち出そうとし、誰がそれを奪おうとしたのか。answerはまだ完全ではない。だが、机の上に並んだ夜は、もう嘘をつかせてくれなかった。

窓の外では、雨がまだ降り続いていた。

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