第10話 裏二十七の扉

私は領収書を二つ折りにしなかった。
古い紙は、折り目を増やすたびに別の時間を抱え込む。三橋が差し出したものを、私は薄紙に挟んだまま帳場の引き出しへ入れた。鍵はかけない。持ち去られる危険より、ここで誰かが触れた事実を残すほうを選んだ。
「黒田さんには連絡しました」
真帆が言った。
「どれくらいで来る」
「十分ほど」
ガラス戸の向こうで、津村は雨に濡れながら立っていた。店へ入ろうとはしない。彼の靴底から落ちた水が、歩道の溝へ細く流れている。
「領収書を返していただけないなら、せめて内容を確認させてください」
「あなたの名前は、宛名から消されている」
「だからこそ、確認が必要なのです。記録が不完全なままでは、いかなる推測も成立しません」
「推測をしているのは、あなたでしょう」
津村の目が、帳場の奥へ動いた。そこには、久瀬の紙片と蔵書票が並んでいる。
「久瀬さんの行方を知っているのか」
「知っている、とは言えません」
「なら、なぜ領収書を取りに来た」
「それが私の研究に関わる資料だからです」
「研究のためなら、名前を消してもいい?」
津村はすぐに答えなかった。雨粒がガラスを伝い、彼の顔を縦に分けている。右側は明るく、左側は店内の影に沈んでいた。
「所有者の確定していない資料を、特定の家へ結びつけるのは危険です」
「確定していないんじゃない。確定している記録を、あなたが覆った」
「古い目録の一行を、絶対視するのは学問ではありません」
「一行ではない」
私は蔵書票を持ち上げた。
「番号、貼り替えられた見返し、領収書、搬出伝票。全部が同じ時刻と場所を指している」
津村の視線が、蔵書票の裏面へ落ちた。
その瞬間、店の電話が鳴った。
真帆が受話器を取る。
「はい、槐書房です……黒田さん? はい、います。裏二十七へ向かうんですね」
私は津村を見た。
「裏二十七へ行く」
「私も同行します」
「あなたを呼んだ覚えはない」
「私の資料が関わっている」
「久瀬も、そこへ行った」
津村は、ほんの少しだけ顎を引いた。
「彼は、自分から行ったのです」
「それは、久瀬がそう言ったのか」
「そう受け取れる状況でした」
「状況を作った人間の言い方だ」
黒田が来るまで、津村を店内へ入れなかった。彼は抗議しなかった。濡れた外套の襟を整え、ただ店の中を見ていた。棚の本ではなく、帳場の机と、引き出しの鍵と、真帆のノートを順番に。
黒田が到着したとき、津村はまだガラス戸の外にいた。
「事情は聞いた。裏二十七へ行く」
黒田は私から領収書の入った薄紙を受け取り、表裏を確認した。
「これだけで踏み込めるのか」
「久瀬の失踪と関係する可能性がある。まず所在確認だ」
「津村も来る」
「本人の希望だそうです」
津村が穏やかに言った。
黒田は彼を一度見て、私へ顔を戻した。
「同行は認める。ただし、勝手に触るな。全員だ」
三橋は店に残ると言った。彼女の手帖は黒田が預かった。返すとき、三橋は抵抗しなかった。ただ、手帖の表紙を指先で一度撫でた。
「戻ったら、私からも話します」
「今では遅いですか」
「遅い話ほど、順番を間違えるとまた消えます」
三橋の言葉を背に、私たちは雨の路地へ出た。
私設文庫の裏手までは、歩いて七分ほどだった。表通りの明かりが途切れると、建物の壁が急に近くなる。古い煉瓦塀と、再開発から取り残された倉庫の外壁。その隙間に、鉄製の扉があった。
扉の上に、白いペンキで「搬入口」とだけ書かれている。番号はない。
相良が言っていた裏二十七は、扉の番号ではなかった。
私は錆びた蝶番の下を見た。扉の脇、壁から少し浮いた金属板に、薄く数字が残っている。二七。上から塗られたペンキの下で、最後の線だけが剥がれずにいた。
「鍵は?」
黒田が訊いた。
津村は答えなかった。
相良なら知っているはずだと思ったが、彼はいない。私は扉の取っ手に触れた。冷たい金属の奥に、わずかな振動があった。
中で何かが動いた。
黒田が合図を出し、扉を開けた。
油と湿った紙の匂いがした。細い通路の両側に、古い段ボール箱が積まれている。箱の側面には出版社の出庫番号が貼られていたが、品名の欄はすべて空白だった。
通路の突き当たりに、木製の扉がある。
その扉だけ、取っ手の周囲が新しい。塗装も、蝶番の油も、他の場所より濃い。
私は近づき、扉の下の隙間へ目を向けた。
光が漏れている。
「久瀬!」
呼びかけると、奥で何かが倒れる音がした。
黒田が扉を開けた。
小さな保管室だった。窓はない。壁際に書籍箱が並び、中央に椅子が一脚置かれている。その横で、久瀬が床へ手をついていた。
顔色は悪かったが、目は開いている。
「駿さん……」
声は掠れていた。
私は駆け寄りかけて、足を止めた。久瀬の左手首には、細い紙紐が巻かれている。強く縛られた痕はない。だが、ほどいたあとも紙の繊維が皮膚に残っていた。
「何があった」
黒田が訊いた。
久瀬は津村を見た。
「この人に、見返しを渡せと言われました」
津村の声が、背後から落ちた。
「渡せとは言っていません。確認させてほしいと」
「鍵をかけた」
「逃げられると困るからです」
「それを、閉じ込めたと言う」
黒田の声が硬くなった。
私は部屋の机を見た。上には、剥がされた見返しが一枚、薄紙に挟まれて置かれている。中央に槐原の名。その下に、古い日付。さらに端には、朱で押された小さな印影があった。
槐書房のものではない。
だが、蔵書票の番号は二七・一だった。
「久瀬さん、これを持ち出そうとしたのか」
「持ち出すつもりでした。津村さんは、先に見つけた」
「なぜ、店の帳場へ蔵書票を残した」
久瀬は唇を湿らせた。
「津村さんが来る前に、駿さんへ知らせたかった。でも、声を出せる場所ではなかった。店へ戻ったとき、棚の本を見て……」
「戻った?」
私は訊き返した。
「久瀬は、昨夜一度店へ戻っていたのか」
久瀬は頷いた。
「二十時二十七分です。裏二十七から抜けて、槐書房へ。そこで蔵書票の裏に番号を押しました。すぐに津村さんが来た」
私は台帳の退店時刻を思い出した。書き換えられた八時三分。その前の空白。久瀬が店へ戻った時間は、退店ではなく再入店だった。
記録は、人のいない時間を作るために改められていた。
「津村さんは、久瀬さんをここへ連れ戻した」
黒田が言った。
「正確には、同行を求めました」
「鍵をかけて?」
津村は返事をしなかった。
黒田が机上の見返しを証拠袋へ入れた。私はその端に残った糊の跡を見た。篠原の補修紙とは違う。貼り替えのためではなく、剥がしたあと仮に固定した糊だ。
津村が自分で剥がし、自分で戻そうとしていた。
「この見返しは、誰の本から抜いた」
私が問うと、津村は初めて顔を歪めた。
「本は、もうありません」
「どこへやった」
「散逸を防ぐために、分けて保管した」
「本を分けたんじゃない。持ち主の名を分けた」
黒田が津村の腕を取った。
そのとき、久瀬が椅子の脇へ手を伸ばした。床に落ちていた小さな紙片を拾い、私へ差し出す。
「これも、残っていました」
紙片には、鉛筆で時刻が書かれていた。
二十時二十七分。
その下に、短く一行。
〈扉は閉じても、来歴までは閉じられない。〉
私は紙片を受け取った。
裏二十七の扉は、まだ開いたままだった。奥にあるのは本ではなく、誰かが閉じ込めようとした時間だった。紙に残った数字と、剥がされた見返しと、消えかけた印影。それらはもう、黙っているだけではなかった。
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