第9話 三つの沈黙

黒田から連絡が来たのは、雨がいったん途切れた夕方だった。

その日は朝から、槐書房の空気が乾かなかった。雨戸を開けても、濡れた木と古い糊の匂いが棚のあいだに残っている。私は閉店の札を出す前から、帳場の蔵書票を何度も確認していた。紙の裏面に刻まれた二七・一の凹みは、光の向きを変えるたびに現れたり消えたりした。

消えたのではない。

見える角度が限られているだけだ。

「駿さん、黒田さんからです」

真帆が受話器を差し出した。

私は受け取った。

「相良の倉庫と、津村の研究室を見た。正確には、倉庫は伝票の確認、研究室は資料の提出を求めただけだがな」

黒田の声は、いつもより低かった。

「何が出た」

「相良の帳簿には、記録にない搬出がある。箱数と重量だけが残っていて、品名がない。しかも、同じ出庫番号が別の日付で二度使われている」

私は帳場の上の領収書へ目を向けた。日付の折れ目が、実際の搬送時刻と合わなかった封筒。その紙の膨らみを、指の腹が覚えている。

「相良は何と言った」

「紙束だと。あんたが聞いた時と同じだ」

「本とは言わない」

「言わせようとしたが、黙った。あの男は知らないんじゃない。知っていることを、言葉にすると自分の手に戻ってくるのを恐れている」

黒田はそこで一度、息をついた。

「津村のほうは、研究ノートの参照先が何度も書き換えられている。槐原家旧蔵書目録の複写を使っているが、どこから入手したかは説明しない。問いただすと、資料の保全と研究上の手続きについて、ずいぶん立派な話をする」

「所有権については」

「そこだけ声が低くなる」

私は、津村が資料について話すときの手つきを思い出した。机の上の紙を角まで揃え、眼鏡の縁を押さえ、言葉をひとつずつ選ぶ。知識を守る人間にも見えた。だが、守るという言葉は、囲い込む人間にもよく似合う。

「三橋は?」

「今、店にいる」

受話器の向こうで、黒田が何かをめくる音がした。

「相良と津村の話を聞いたあと、あんたの店へ行くと言っていた。たぶん、昔の仕入帳を持っている」

「彼女が見せるとは思えない」

「見せるかどうかは、あんたが決めることじゃない。俺は、見たものを記録する」

電話が切れた。

真帆は受話器を戻しながら、私の顔を見た。

「相良さんは、やっぱり何か知っているんですね」

「知っている」

「断定していいんですか」

「黒田が、そう言った」

「でも、知っていることと、手を入れたことは違う」

私は彼女を見た。

真帆は袖口をつまんでいた。以前なら、そこで言葉を引っ込めていたはずだ。だが、今は目を逸らさない。

「相良さんは、紙の流れを知りすぎています。でも、津村さんが何をしたかを話さない。三橋さんも、昔のことを知っているのに、話す順番を選んでいる。みんな、何かを守っているようで、何かを隠している」

「守ることと隠すことは、同じ手つきになる」

「駿さんも、ですか」

その問いは、細い紙の切れ端より鋭かった。

私は蔵書票を裏返した。番号の凹みが、指先にざらりと返ってくる。

「私も、昔はそうだった」

「何を隠したんですか」

「隠したつもりはなかった。来歴を確かめないまま、本を売った」

「それは、隠したことになるんですか」

「見なかったことと、見えなかったことは違う。だが、残された側からすれば同じだ」

真帆はすぐには返事をしなかった。帳場の奥で、古い時計が一度だけ音を立てた。

「久瀬さんは、見たんですね」

「ああ」

「だから、追った」

「だから、消されかけた」

口にしてから、私はその言葉の重さを測った。久瀬が殺されたと決まったわけではない。だが、彼の退店時刻は書き換えられ、貸出札は抜かれ、机上には蔵書票だけが残された。人間の所在を消すには、まず記録から消せばいい。そうすれば、いなくなったことさえ曖昧になる。

ガラス戸が二度、軽く叩かれた。

三橋だった。

彼女は濡れた傘を閉じると、入口脇の傘立てを壁際へ整えた。昨夜、黒田が残した位置から五センチほど内側へ押し込む。その動きを見て、私は床板に残った水の跡を思い出した。

三橋は、店に入るなり帳場へ来た。

「お待たせいたしました」

「黒田から聞いた」

「何をでしょう」

「相良の倉庫に、帳簿にない搬出がある。津村の資料には、書き換えられた参照先がある」

三橋は一度笑った。だが、今日はその笑いが長く続かなかった。

「お若い刑事さんは、ずいぶん正面からお訊きになるのですね」

「正面から訊かないと、古書の世界では何も出てこない」

「正面から訊けば、出てくるものがすべて正しいとも限りません」

「それでも、黙ったままよりはいい」

三橋は湯呑みを取り出し、持参した番茶を注いだ。湯気が紙の匂いに混ざり、店の中に薄い草の香りが広がる。彼女は一口飲み、湯呑みを机へ置いた。置き方が丁寧すぎた。

「相良さんは、何を運んだのですか」

私は訊いた。

「運んだものを、紙束と呼んだのでしょう」

「あなたも同じ呼び方をする」

「本と呼ぶには、本の形をしていないものもあります。見返し、蔵書票、台帳の写し、領収書。ひとつずつなら紙屑です。ですが、それが揃えば、一冊の本の過去を作ることができる」

「過去を作る?」

「ええ。過去は、起きたことだけで出来ているわけではありません。残された記録で、あとから形を与えられる。誰が持っていたか、いつ売ったか、どこへ移ったか。記録がなければ、起きたことも証明できません」

「だから、誰かが記録を書き換えた」

「書き換えた者もいるでしょう。書き換えられたと知りながら、黙っていた者もいるでしょう」

「あなたはどちらだ」

三橋は、私を見た。

「私は、黙っていた者です」

真帆が、わずかに息を呑んだ。

三橋は続けた。

「戦後の混乱の中で、槐原家の蔵書が散っていくのを見ました。火事で焼けた本もありましたが、焼けずに残った本のほうが始末が悪かった。相続人は値段をつけ、業者は冊数で引き取り、帳面には仕入先不明と書かれる。誰かが悪人だったからではありません。皆が、自分の生活を守るために、少しずつ名を省いたのです」

「省いた?」

「最初は『槐原家当主所蔵』だったものが、『槐原家旧蔵』になり、それから『旧蔵』さえ落ちる。名が短くなるたび、責任も短くなる。最後には、誰の本だったのかを問う相手がいなくなる」

「それを、守るために黙った」

「守るためだけではありません。怖かったのです。正しいことを言えば、残った本まで市場から消えるかもしれない。誰かが証拠を持って名乗り出れば、別の誰かが本を隠す。そういう場面を、何度も見ました」

「だから久瀬にも教えなかった」

三橋は湯呑みの縁を指で撫でた。

「教えれば、あの方は一人で走ると思いました」

「実際に、走った」

「ええ。ですから私は、止めるべきでした」

「止めなかった」

「止めれば、私もまた隠す側だと、あの方は考えたでしょう。私はすでに、十分すぎるほど隠してきた。これ以上、正しいふりをして若い人の目を塞ぐことはできませんでした」

「それでも、場所を教えなかった」

「教えれば、もっと危険になる場所だったからです」

「津村の保管先か」

三橋は答えなかった。

答えないことが、今度は逃げではないように思えた。彼女の沈黙には、長く抱えすぎた記憶の重さがあった。けれど、重さがあるからといって、責任が消えるわけではない。

私は机の上に、蔵書票、台帳、領収書、貸出札を並べた。

「三橋さん。あなたの沈黙は、相良の沈黙とは違う」

「まあ」

「相良は、言えば自分の手が記録に残るのを恐れている。津村は、言えば自分の成果が他人へ渡るのを恐れている。あなたは、言えば本がさらに失われるのを恐れている」

三橋は、ゆっくりと目を上げた。

「よく見ておいでですね」

「だが、結果は同じだ。誰かが黙ったことで、久瀬の所在が分からなくなった」

「ええ」

三橋の返事は、予想より小さかった。

「その通りです」

店の中が静かになった。雨はまだ降っていない。にもかかわらず、屋根のどこかから水滴が落ちる音がする。

「三橋さん」

真帆が口を開いた。

「守るために黙ったのなら、今は話すべきじゃないですか」

三橋は彼女を見た。若い顔を見つめる目に、かすかな疲れが浮かんだ。

「お嬢さん。あなたは、正しいことを言うのが怖くないのですね」

「怖いです」

真帆は袖口を握った。

「でも、怖いからって、見たことをなかったことにはできません。私は本のことをよく知りません。でも、久瀬さんの名前が台帳から薄くなっていることは分かります。誰かが触った札の順番も、雨に濡れた紙の折れ方も見ました。見たものまで黙ったら、私は何も見ていなかったのと同じになります」

三橋はしばらく彼女を見ていた。

「その考え方は、危ういですよ」

「久瀬さんにも、そう言ったんですか」

「言いました」

「それでも、止めなかった」

「ええ」

「今度は、私たちも止めないでください」

真帆の声は震えていなかった。

三橋は眼鏡を外し、布でゆっくり拭いた。レンズには何も付いていない。ただ、言葉を選ぶための時間が必要だったのだと思う。

「私設文庫の裏手に、古い搬入口があります。相良さんが使う箱の一部は、そこへ運ばれていました。津村さんは、あの場所を保全書庫と呼んでいます」

「裏二十七」

私が言うと、三橋の手が止まった。

「久瀬さんは、そこへ行ったのですね」

「行ったでしょう。けれど、あなたがたが見つけたのは、行ったという記録だけです。人が戻った記録はない」

「あなたは、久瀬の行方を知っているのか」

「知っているのは、最後にあの方が立っていた場所だけです」

「どこだ」

「搬入口の前です」

「それだけか」

「それ以上を申せば、私は見ていないことまで語ることになります」

私は、彼女の手帖へ目を向けた。布張りの表紙の角が濡れている。その中に、古い領収書や槐原家に関する書付けが入っているのだろう。

「その手帖に、搬入口の記録がある」

「ございます」

「見せてくれ」

三橋はすぐには動かなかった。

「駿さん。あなたは、すべてを明るみに出すおつもりですか」

「すべてではない。見たことを、見たこととして残す」

「それでは、津村さんを追い詰めることになります」

「追い詰められるだけのことをしたなら、記録に残る」

「相良さんも、篠原さんも、私もです」

「そうだ」

私の声は低かったが、逃げなかった。

「誰がどこまで関わったかを、勝手に一人の犯人へまとめるつもりはない。だが、誰か一人の名前を守るために、別の誰かの名前を消すこともしない」

三橋の口元から、笑いが消えた。

「……あなたは、変わりましたね」

「変わったのではない。変わらなければならなかった」

「以前は、装丁の美しい本を、来歴より先に見ておいででした」

「だから一冊、名前を失わせた」

「その一冊を、覚えておいでですか」

「忘れたことはない」

「忘れないことと、記録することは違います」

三橋は手帖を開いた。古い紙の匂いが、番茶の湯気を押しのけて立ち上がる。何枚かめくったあと、一枚の領収書を抜き取った。

紙の端は茶色く変色し、折り目には何度も開閉された痕がある。宛名は薄く消されていたが、日付と搬入口の番号だけが残っていた。

裏二十七。

その下に、鉛筆で小さく書かれた時刻がある。

二十時二十七分。

私は息を止めた。

「これは、久瀬が消えた夜のものか」

「ええ」

「宛名を消したのは誰だ」

「私です」

真帆が顔を上げた。

三橋は領収書を見つめたまま、続けた。

「津村さんが、資料の保全費として受け取った領収書です。実際には、槐原家旧蔵本の見返しと蔵書票を運ぶための費用でした。相良さんが箱を用意し、篠原さんが本を直し、私は古い帳面を渡した。誰も、すべてを同じ目的でやったわけではありません。けれど、結果として、名を隠す作業を手伝った」

「津村が所有者名を偽装した」

「はい」

三橋の声は、初めて明確だった。

「けれど、あの方は、自分が奪ったとは考えていません。散逸した資料を救い、研究に戻しただけだと。名前を消したのも、所有権の争いを避けるためだと言うでしょう」

「久瀬は、それを知った」

「ええ。だから、返せと言ったのです」

「何を持ち出そうとした」

三橋は、領収書の裏を指で押さえた。

「原本の見返しです。見返しの二枚目に、元の所有者と、移された日付が残っている。津村さんが最も恐れているのは、本そのものではありません。自分の研究ノートが、他人の記録を自分の発見として組み替えたものだと証明されることです」

そのとき、入口のガラス戸が揺れた。

風ではなかった。

外に誰かが立っている。

黒い影が、水滴の向こうで動いた。三橋が顔を上げ、真帆が息を呑む。私は蔵書票を薄紙へ戻すより先に、戸口へ向かった。

鍵へ手を伸ばしたところで、外から声がした。

「その領収書を、私に返していただけませんか」

津村だった。

声は穏やかだった。だが、いつもの整いすぎた響きの底に、初めて隠しきれない硬さがあった。

私は三橋から領収書を受け取り、帳場の中央へ置いた。

紙の折り目が、明かりの下で一本、長く浮かんでいる。

「返す先が違う」

私はガラス戸越しに言った。

「これは、あなたのものではない」

津村の影が、わずかに揺れた。

「所有権について、誤解がおありのようですね」

「所有権の話はしていない」

「では、何の話でしょう」

「誰が、いつ、何を動かしたかだ」

「それは、これから説明いたします」

「説明ではなく、記録が要る」

私は領収書の端を押さえた。

「相良の帳簿、あなたの研究ノート、三橋さんの領収書。三つの沈黙が、同じ時刻を指している」

店の外で、雨が降り始めた。

細い水滴がガラス戸を伝い、津村の顔を歪める。彼はまだ中へ入らない。入れば、濡れた靴跡が床に残る。彼はそれを知っているのだろう。紙だけでなく、床の跡まで気にする人間だった。

「駿さん」

津村の声が、低くなった。

「記録は、扱う者によって意味が変わります。あなたが正しさと呼んでいるものも、別の誰かにとっては、ただの破壊になる」

「それでも、消えた名前は戻さなければならない」

「戻す場所がない名前を?」

「場所がなくても、記録する場所はある」

私は領収書の裏に残った時刻を見た。

二十時二十七分。

久瀬が消えた時刻。蔵書票の番号。台帳から薄められた退店記録。紙は、それぞれ違う場所にあった。だが、同じ時間を抱えていた。

津村は何も言わなかった。

三橋は湯呑みを両手で包み、真帆はノートを開いた。黒田へ連絡するため、私は携帯電話を取り出した。

その瞬間、帳場の奥で、乾いた音がした。

一冊の本が、棚からゆっくり滑り落ちた。

床へ落ちる前に、私は受け止めた。表紙の内側から、薄い紙片が覗いている。見返し二枚目に挟まれていた紙だった。

指先に触れた紙は、冷たく、わずかに湿っていた。

そこには、久瀬の字で、短い一行が残っていた。

〈名前は、戻す場所ではなく、残す場所を必要とする。〉

私はその紙を閉じず、帳場の明かりの下へ置いた。

外の雨が強くなる。

蔵書票は、何も語らない。

それでも、そこに残った番号と擦れと折り目が、黙った人間たちの言葉を、一つずつこちらへ押し戻していた。

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三つの沈黙 - 裏二十七の扉 - 誰でも作家life