第10話 第十話「遺影の下の咳」

咳払いは、もう一度聞こえた。
今度は、仏壇の奥ではなかった。遺影の下、位牌の脇に置かれた小さな香炉のあたりからだった。
私は動けずにいた。
線香は一本しか立てていない。火の先が赤く縮み、灰の中へ沈みかけている。煙は鴨居へ上がる途中で一度だけ横へ折れ、遺影の額縁の裏へ吸い込まれていた。
額縁の下には、薄い隙間がある。
祖父の遺影は、いつ見ても少し右へ傾いていた。四十九日のあと、私が直そうとしたとき、浩一叔父さんに触るなと言われた。理由は聞かなかった。聞けば、また家の中の空気が一段重くなると思ったからだ。
私は座布団を踏まないように畳へ膝をつき、遺影の額縁へ手を伸ばした。
指先が木に触れた。
冷たかった。
湿気のせいだと思うには、冷たさが長く残った。額縁の裏から、古い紙と、かすかな焦げの匂いがした。
私は額縁を持ち上げた。
裏側の留め具に、細い黒い糸が絡んでいる。糸ではなかった。線香の灰を水で練ったような、柔らかいものだった。指先で触れると、ぬめりがあり、爪の間へ黒く入り込んだ。
その下に、封筒が挟まっていた。
白かったはずの紙は黄ばんで、角が潰れている。表には何も書かれていない。封は一度開けられ、その上から細い糊で閉じ直されていた。
私は封筒を引き抜いた。
その瞬間、鴨居の五本目の染みが、低く軋んだ。
木が鳴ったのか、染みが動いたのか分からない。ただ、黒い線の先端がわずかに下へ垂れ、私の手元を指しているように見えた。
「真琴ちゃん」
台所から澄江叔母さんの声がした。
私は封筒を膝の下へ隠した。
「なに」
「何か落とした?」
「ううん。遺影を直していただけ」
返事をしてから、自分の声が祖父に似ている気がした。短く、余計なものを削った声だった。
叔母さんが廊下を歩いてくる。足音はいつもより遅い。仏間の戸口に姿を見せたとき、叔母さんは私ではなく、まず遺影を見た。それから私の膝元へ視線を落とす。
封筒の角が、着物の裾から少しだけ出ていた。
叔母さんは何も言わなかった。
代わりに、仏壇の灰を見た。灰の表面には、線香の燃え殻が横倒しになっている。叔母さんはそれを拾い、指先で折った。
「それ、どこにあったの」
「遺影の裏」
「開けないで」
言葉が早かった。
私は封筒を取り出した。
「どうして」
「古いものだから」
「古いから、開けるんでしょう」
「開けたら、戻せなくなるものもある」
「もう戻れないよ。染みも、五本になった」
叔母さんの指が止まった。折った線香の燃え殻が、指のあいだで黒く崩れる。
「見たの」
「最初から見てる」
「浩一さんには言わないで」
「叔母さんは、知ってたの」
叔母さんは答えず、灰を香炉へ戻した。何度も同じ場所を撫でる。灰をならしているのではなく、そこにあるものを押し込めているようだった。
「お父さんは、何でも裏にしまう人だった」
「この封筒の中身も?」
「たぶん」
「事故のこと?」
叔母さんは目を上げた。
そこには驚きよりも疲れがあった。見つかってしまった、という疲れではない。見つかるまで持っていたことに、もう耐えられない人の目だった。
「病院の名前が書いてある」
「誰の?」
「知らない」
「知らないのに、遺影の裏へ隠したの」
「私が隠したんじゃない」
「じゃあ、誰が?」
叔母さんは封筒へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「開けるなら、ここではやめて」
「どこでならいいの」
「台所」
「仏間で見つかったものを、台所へ持っていくの?」
「仏間では、声が残るから」
叔母さんはそう言って、初めて鴨居を見上げた。
五本の染みを数えているようには見えなかった。ただ、一本目から順に目を滑らせ、最後の線で視線を止めた。
「増えたね」
小さな声だった。
私は息を呑んだ。
「見えてたの」
「見えていたよ」
「いつから?」
「最初から」
「どうして言わなかったの」
「言ったら、何か変わった?」
「少なくとも、私だけが見ているわけじゃないって分かった」
「分かったところで、怖さは減らない」
「減らなくてもいい。何が起きているのか知りたい」
叔母さんは私の手から封筒を取った。指先が触れたとき、叔母さんの手がひどく冷えているのに気づいた。
「これは、事故の記録じゃない」
「じゃあ何?」
「事故のあとに、お父さんが書いたもの」
叔母さんは封を開けた。
中から、折り畳まれた便箋が三枚出てきた。紙の端には黒い汚れが染みついている。文字は祖父のものだった。角張った筆跡。けれど、いつもの帳面より筆圧が弱い。ところどころ線が震えていた。
最初の一行を読んだ。
――矢野さんへ。
私は叔母さんの顔を見た。
「矢野さんに宛てた手紙?」
「読んで」
「叔母さんは読んだの」
「読めなかった」
「どうして」
「読んだら、お父さんが何をしたか分かるから」
「分からないままの方が、怖いよ」
叔母さんは便箋を私へ渡した。
私は紙を広げた。
――あの夜、あの場所にいたのは私だけではない。だが、私が口を閉じれば、ほかの者も黙る。そういう話にした。そういう話にしてしまった。
そこまで読んだところで、背後の仏間の戸が閉まった。
誰も触れていない。
戸板がゆっくり滑り、鴨居の下で止まる。線香の煙が閉じ込められ、部屋の内側へ渦を巻いた。
私は便箋を握った。
続きには、日付と場所の名前が書かれていた。
町外れの旧道。
雨の翌朝。
白い標識の脇。
「これ、事故現場だ」
「行くの?」
叔母さんが訊いた。
「行く」
「浩一さんが止める」
「止められる前に行く」
「行ったら、戻れないかもしれない」
「もう、戻る場所なんてないよ」
言ったあとで、叔母さんの顔を見た。
責めるつもりはなかった。けれど、叔母さんは目を伏せた。自分にも同じ言葉を向けられたと思ったのかもしれない。
私は便箋を封筒へ戻した。
そのとき、鴨居の染みから黒い雫がひとつ落ちた。
畳ではなく、封筒の上へ落ちた。
紙に染みた黒は、ゆっくり広がり、祖父の文字の「矢」という字を覆った。墨をこぼしたように見えたが、乾く気配がない。封筒の中から、かすかな咳払いが聞こえた。
私は立ち上がった。
「今夜、行く」
「雨が降ってる」
「だから行く」
叔母さんはしばらく黙っていたが、やがて台所へ戻った。戸棚を開ける音がする。何かを探し、引き出しを閉め、また開ける。
戻ってきた叔母さんの手には、祖父の古い鍵束があった。
「旧道の脇に、小屋がある」
「小屋?」
「昔、道具を置いていた。お父さんは、事故のあと、そこへ何度か通っていた」
「何をしに?」
叔母さんは鍵束を私へ差し出した。
「聞かなかった」
「また、聞かなかったんだね」
「聞けなかったの」
その違いを、私はすぐには受け取れなかった。
叔母さんの手のひらには、鍵の跡が赤く残っていた。長いあいだ握りしめていた跡だった。
私は鍵束を受け取った。
玄関へ向かう前に、もう一度だけ仏間を振り返る。
閉じた戸の上、鴨居の黒い染みは六本になっていた。
新しい一本は、ほかの染みから離れた場所にあった。まっすぐ下へ伸び、戸の隙間へ入っている。
その先が、家の外へ続いているように見えた。
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